風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

取り繕って隠した怒りは憎しみとなって心の内深く潜む


● 村上春樹の系譜と構造

若い頃から心に留めていた箴言に次のような言葉がある。

憎しみを隠す者には偽りのくちびるがあり(箴言10:18 口語訳)
唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は腹に欺きを蔵している。(箴言26:24 新共同訳)

しかし、これらは、どの訳を見てもしっくり来ない。言っていることはつまりこういうことではないか、と自分で解釈して心に留めていたのだった。「取り繕って隠した怒りは憎しみとなって心の内深く潜む」、と。

私がこの言葉を心に留めていたのは、小学校の教員時代。重い障害を持った子どもを担当していた頃のことだ。
言葉をまだ持っていない子どもで、時折パニックになっては自傷行為を繰り返す。そういう時は窓を閉め切り、パニックがおさまるまで待って、「ごめんなさいは?」と謝ることを促した。すると、上目遣いできまり悪そうに、私に向かってふぅ〜と息を吹きかけるようになった。それを「ごめんなさい」の挨拶として受け取って、お終いにするのである。大声で泣いて、暴れて、周りの教室に迷惑をかけたというようなことは理解できてはいない。しかし、理解できていようがいまいが、障害を持っていようがいまいが、悪かった時には謝らなければならない。それを教えるのは教育の基本であろう。
しかし、この聖書の言葉は子どものために心に留めていたのではない。むしろ自分自身のために心に留めていたのである。
この時の私の中にある感情は「怒り」である。こんな状態の時に子どもが可愛い等と思えるはずはないのだ。大騒ぎをして周りに迷惑をかけ、しかも自分自身を傷つけた子どもに対して感じる感情は「怒り」なのである。私は、その「怒り」を自分の中に封じ込めるのでなく、正しく子どもに向けるために、謝ることを要求したのである。これをしなければ、私の中で怒りは腐敗して子どもに向かって憎しみの感情を抱くようになるだろう、そう思ったからだ。「取り繕って隠した怒りは憎しみとなって心の内深く潜む」のである。

こんなことを思い起こしたのは、上にリンクした内田樹氏のブログを読んだからである。
前に沼野充義氏の書評を読んで村上春樹氏の『女のいない男たち』についてブログに書いたのだけど、沼野氏の書評では、この短編集の中の「木野」について詳しく知ることが出来なかった。内田氏はこの「木野」について核心を突くような書き方をしておられたので、とても興味深く、上記旧約聖書箴言の言葉を思い起こしたのだった。


ところで、先日祈り会で聖書を輪読していて、人間というのは同じような状況に立たされると同じような行動をとるものなのかも知れないと思ったのだった。

ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。ラバンはまた、女奴隷ジルパを娘レアに召し使いとして付けてやった。ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルヤコブに妻として与えた。ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召し使いとして付けてやった。こうして、ヤコブラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。
 主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。
 ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」ラケルは、「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った。ラケルヤコブに召し使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた
 レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召し使いジルパをヤコブに側女として与えたので、レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)」と言って、その子をガドと名付けた。レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。(創世記29:21~30:13)

アブラハムの妻サラも自分の女奴隷によって子をもうけようとした。イスラエル人にとって子孫というのは自分の家系から救い主が生まれるかどうかということに関わっている事柄だから、子どもが出来るかどうかということはとても重要なことなのだとは思う。けれど、このレアとラケルの場合はそれよりも純粋に嫉妬心が先行しているように思う。それにしても、この競い合いは凄まじい。
しかし、それにもまして神様の御恵の深さに驚く。31節に「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれた」と書かれているが、救い主イエス・キリストはレアの産んだユダの子孫から生まれるのだ。神様は、疎んじられた者を引き寄せ、ご自分の御業のために用いられるお方である。