風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「らる」といふ「受身」の助動詞(増殖するリンクと歌)

お風呂上がりはメンテナンスをしなくちゃねぴんぴんころりと終はるためにも

子どもの頃は健康だけが取り柄だったような人間だったのだが、今では色々と不具合を抱えている。足腰は一度痛めると完全には元に戻らない。母と同じで晩年は車椅子の生活か、と思ったりする。アロマオイルを調合して手入れをしてはいるのだが・・。

体温調節が上手く出来ないので、急激な気温の変動で体調を悪くする。昔、PTAの集まりで4階の教室まで上がって大汗をかいていて、「そんなに暑い?」と聞かれたので、「病気だから」と応えた。その後、また別の場所で「暑い、暑い」と言っていたら、同じ人に「今日はそんなに暑くないでしょ」と言われ、「病気だから、自律神経失調で体温調節出来ないのよ」と言うと、「病気って、本当だったの!冗談だと思ってた」と言われたのだった。

だが、自律神経失調症というと、何かものに寄りかかっていなければ生きていけない人のように受け取られそうな名称である。そこから、具合が悪いのは気の持ちようだと思われたり、気合いで何とかなると思われたりしそうなのだ。

20年ほど前は月の半分ほどを頭痛の頭で過ごしていた。その頭痛が昂じて年に一、二度は吐いていた。けれど(気合いだけは人一倍入っているためか)外から見ただけでは分からないようで、説明しなくてはならない事態に陥ると説明するのだが、二度三度とそういう事態に遭遇すると説明するのも面倒になってくる。黙っていても分かっていてくださる方がおられるんだし(イエス様のこと)、他人に知って貰わなくてもいいようなことなんだけど、そんなこんなで、関電前スタンディング・デモもなかなか皆勤とはならない。


 ところで、この文語の歌詞の中で現代人が誤解しがちなところがあります。「日々主と歩めば」というところです。
 現代語でいえば、これは「もし日々主と歩むならば、天国にいる気持ちがするだろう」という仮定の意味にとられるでしょう。しかし、文語では、「もし日々主と歩むならば」という意味を表現したいなら、「日々主と歩まば」としなければなりません。
 「歩め」は、動詞「歩む」の已然形です。<已然形+ば>は確定条件といって「〜なので」という意味を表す場合が多いのです。他方「歩ま」は未然形であり、<未然形+ば>は、「もし〜ならば」という仮定条件です。
 そうすると、この聖歌の意味はどういうことになるでしょうか。(抜粋引用)
  ↓
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20151220/p2

文語って難しい。間違っていっぱい使ってる気がする。(ミルトス)


「らる」といふ「可能」「不可能」「尊敬」か 見分けられずに「受身」になれず

語りしこと受け止められず憶えられず どうでも良くって乗り越えられず

「赤い靴」履いているのか寝ているとますますひどくなりゆく頭痛は

きかれずば完結し得ぬ物語ありて聴きをり寒空の下

口にし得ず口にせぬこと多ければ地下に降りゆき吾は物書く

言葉はえぇ、話せるんです話せるけど筆談で会話(しませんか)面倒ですか

愛せぬと苦しみをれば地下室の人となりしかドストエフスキー

地下室を出でてドストエフスキーは「カラマーゾフ」を書きて召されき

大風にくわ〜んと撓り傾いて花壇の縁よりはみ出して咲く