風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

手話で『いばらひめ』を・・。

若い頃から手話に興味があってサークルに入ったりもしたが、サークルの時間帯が合わなくなって中断するということを繰り返していた。

働き始めた初期の頃に難聴の子どもを卒業の年の一年間だけ担当した。子どもに手話を教えるほどの力はなかったので教える等ということは考えてもいなかったのだが、ある時、その子の父母との話の中で手話についての話題が出た。聾学校では手話は教えないし使わせない。唇を読む訓練を小さい頃からするのだという。手話を習って手話に頼っても、一般の人達が手話を理解しない限り役に立たないから手話は教えないようにして欲しい、と。そんなお話を聞きながら、義務教育の中でこそ手話の授業があって、聞こえる聞こえないに関わらず手話が学べれば良いのにと思ったのだった。あれから20年以上経って、ゆとり教育の頃は総合の時間などで手話を取り入れる学校もあったと思うが、未だ義務教育の授業の中に手話は位置づけられてはいない。

静岡にいた頃、聾学校に勤めておられる聾者の先生を紹介して頂いて、グリム童話『いばらひめ』を手話に訳すのを手伝ってもらったことがある。そうして完成したのを小学校の読み聞かせの中で手話付きで読み聞かせしたのだった。手話を付けてゆっくり読むので全体で20分ほどかかってしまうのだが、札幌に引っ越してからも5年生のクラスで時間を取ってもらい何度かさせて頂いた。

私が読み聞かせで用いたのはこぐま社から出ている『子どもに語るグリムの昔話』で、このエロール・ル・カインの絵本の矢川澄子さんの訳とは微妙に違うのだけれど、料理番がこぞうをつかまえようと手をのばしたまま眠っている場面や女中が鶏の羽を毟ろうとしたまま眠っている場面を手話に置き換えるのはとても楽しい作業だった。

札幌に行ってからはアンデルセンの『マッチ売りの少女』を自分で手話にして、これも小学校で読み聞かせさせて頂いた。もしかしたら間違った表現をしていたかもしれないが・・。

手話にも方言のようなものがあるようで地域で微妙に違うようだが、もっともっと普及して身振りの代わりに手話が定着すると良いと思う。私は一度、お店で外国の方から日本語交じりの英語で尋ねられた時、「but・・」と言いながら掌を顔の横で反転させる手話を思わず付けてしまったことがあった。英語に慌てて、これも慣れない手話を思わず動員して応えようとしたのだ。でも、もっともっと気軽に使われるようになれば良いと、やはり思う。軍国主義に向かって行って、手話が義務教育の中に組み込まれるようになるとはとても思えないのだが・・。