風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

原罪を自分の罪として自覚するのは


「甘ったれた女性社員たち」と吠える古びた論客たちー曽野氏の言論についての武田砂鉄氏の投稿記事

原罪を自分の罪として自覚するというのは、どういうところから起こってくるのだろうかと、この頃になって、又、しばしば考えている。
偶像礼拝の罪というのも私達日本人にはなかなか理解しづらいものがあると思うのだが、原罪を自分の罪として自覚するのは日本人に限らずさらに難しいことなのではないかと近頃ますます思わされている。

エスは十字架上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34)と祈られたが、私達の罪の深さはこの「罪の無自覚」に比例しているのではないかと思わされるほどだ。しかし私達は罪を自分のものとして自覚するのでなければ、キリストの救いの業を自分のためのものとして受け止めることも、感謝することも出来ないはずである。
原罪を自分自身の罪として自覚する契機というのは、一人一人に違った形で与えられるものなのだろうと思う。だが、不幸な境遇で「自分は被害者だ」と思って育った人が、あるいは「自分は被害者だ」と今も思っている人が、罪を自分のこととして自覚するのはとても難しいのではないだろうか。


近頃、特集まで組まれて雑誌を賑わしている曽野綾子氏も、キリスト教でいうところの「罪」を自分のこととして捉えることが出来ていないのではないかと私は思う。曽野氏も、「自分は不幸な家庭に育った被害者だ」という思いを今に至るまで抱えている人であろうと思うのだ。最近のものは読んでいないので分からないが、若い頃読んだ曽野氏のエッセイには幼い頃の親との確執が描かれている。そして、「私は自分に与えられていた環境を何でもこれは意味あることなのだ、と思おうとしたし、それにやや成功したのだった」(『誰のために愛するか』)というように自己を捉えている。ここには、キリストの救いを必要としている人間の姿は見えない。「私は不幸な家庭に育った被害者でありながら自らの力でその不幸な境遇を糧にして学んだのだ」と言っているのだから。だからこの言葉の続きのところに、「むしろ現代は、そのような面でも過保護なのである」(『誰のために愛するか』)という言葉が現れるのである。

被害者意識を持った人間が自己の罪を自覚するというのは相当に難しいことではないかと私は思う。しかし、「罪」を自覚しなければ、キリストによる救いはその人間にとっては無意味なものとなるのではないだろうか。必要ないと思うはずである。けれど曽野氏は自らカトリックであることを名告っている。カトリックであるということを一つのステイタスとして捉えているのだろうか。

曽野氏についての特集が組まれた週刊金曜日第976号』には、「『曽野綾子カトリック』ではない」という編集部の記事が載せられている。これはカトリックへの配慮として載せられた記事であろうが、こんな記事まで載せられているというのに自分のやっていることの愚かさに気づかないでいるというのは、同じキリスト教徒として何ともやりきれないことだ。


上にリンクした記事の中に、昨年8月25日の産經新聞に掲載された曽野氏のコラムが引用されていたが、その文章は衝撃的なものである。引用する。

高齢化社会の到来により)「若者たちは老人の存在自体を悪と考えるか、あるいは自分たちの世代の発展を阻害するものとして敵視する。その結果個人的に高齢者を殺害するか、あるいは集団で老人ホームを襲撃したり、火を放って焼いたりするようになるかもしれない」

この記事を書かれた武田砂鉄氏は、この引用の後に次のように書いておられる。

 ……今、30代にさしかかった辺りなので自分が「若者」の中に含まれるか分からないが、このテキストを読んで憤りを抑えることができない(殺したり放火したりしないけど)。どうしてこんなに、世の中を殺伐とさせたがるのだろうか。(中略)断言するけれど、僕たちは「個人的に高齢者を殺害」したりしない。当たり前だ。「集団で老人ホームを襲撃したり、火を放って焼いたり」しない。当たり前だ。この手のザックリとした脅迫は、ただただ世間を殺伐とさせる。
私は曽野氏のコラムの全文を読んだわけではないが、上の一文を見ただけでも、武田氏が憤られるのは無理もないことだと思った。(そういった事件を起こす人間が出てくることがあるかもしれない。これまでだって、ホームレスの人に暴力をふるった若者もいたりするのだから。けれども、この文章の中では「若者たちは」と一括りにして言っている。)そして私も、引用された曽野氏のこの文章を見て、どこまで精神が捻れてしまっているのだろうと思い、こんな文章をどうして新聞がまともな文章として載せるんだと思い、本当に本当に悲しくなった。

信じるというのはどういうことだろうか。自分の罪を認めてしまったら曽野氏のように若者の善性を信じられなくなるだろうか。そうではないと思う。私達キリスト教徒は人間の善性を信じるのではない。罪を自分のこととして受け入れれば、キリストが私のためにこの世に来られ私の身代わりとなって十字架についてくださったのだということが分かるようになる。キリストの十字架の意味が分かれば、神がどれほど私達人間を大切に思っていてくださるかということが分かるようになる、ということだ。そのことが分かれば、若者達が幸せに生きて行くことを願わないはずがないのである。

しかし、自分の被害者意識にばかり囚われている者は、若者が幸せになることが許せなくなる。そして貶めようとする。被害者意識に絡め取られた可哀想な人間は、先ず自己の罪と対峙しなくてはならない。キリストの十字架の下で深く項垂れなくてはならない。そして自分に向けられた神の愛を、深く深く胸に刻みつけなくてはならない。そう、私は思う。

神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。(ヘブル人への手紙4:12)