風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

パウロ・コエーリョ=作『星の巡礼』Part2ー「愛する」とはどういうことかを考える

星の巡礼パウロ・コエーリョ=作(角川文庫)Part1からの続き。
ここでは、一番初めに読んだ第七章「結婚」の中で語られた、主人公をサンチャゴへと案内する導師の言葉から、私が考えさせられたことを中心に書いてみたいと思う。

パウロはサンチャゴへの途上でガイドのペトラスと共に誰でも参加できるという若いカップルの結婚披露パーティに行き合う。その場面からペトラスの言葉を引用する。

ギリシャ語では愛を意味する言葉が三つある」と彼は始めた。「今日、君はエロス、つまり二人の人間の間に存在する愛情の発露を見ている」
 新郎新婦はカメラマンに向かってほほ笑み、祝福の言葉を受けていた。
「あの二人は本当に、お互いに愛し合っているように見える」二人を見ながら彼は言った。「そして、彼らは自分たちの愛が育ってゆくと信じている。しかしすぐに、彼らは二人きりになって、生活のために苦労し、家を建て、冒険を共にわかち合うようになる。こうしたことで、愛は気高く、威厳のあるものとなるのだ。彼は陸軍で仕事をする。彼女はおそらく、料理が上手で良い主婦になるだろう。子どもの時からそうなるようにしつけられてきたからだ。彼女は夫にとって良き伴侶となり、二人は子どもを育て、自分たちは一緒に何かを築きあげたと感じることだろう。彼らは良き戦いを戦うのだ。たとえ、何か問題があろうとも、二人は決して本当に不幸になることはない。
 しかし、今、私が君に話している筋書きはまったく違った道をたどることもあり得る。彼は自分のエロスのすべて、つまり、自分が他の女性に対して持っている愛のすべてを表現する自由が、自分には十分にないと思い始めるかもしれない。彼女の方は、夫と一緒にいるために、自分の輝かしいキャリアをあきらめてしまったと感じ始めるかもしれない。そして、二人で共に何かを作り出すかわりに、それぞれに愛を表現する手段をうばわれてしまったと感じ始めるかもしれない。エロスという二人を結びつけていた精神は、そのネガティブな面だけを表し始める。そして神が人間に最も気高い感情として与えられたものが、憎しみと破滅の原因となってしまうのだ」
パウロ・コエーリョ=作『星の巡礼』(角川文庫)より抜粋引用)

私がここの言葉を読んで思ったのは、「結婚生活をおくる間には様々な感情の時を経るものではないか」ということだった。ネガティブな感情に囚われた時に結婚生活を解消すれば、良き戦いは敗北したままで終わることになるということだろう、と。(けれど世の中には、ドメスティック・バイオレンスに晒されながら、「この人には私が必要なのだ」という共依存に囚われて結婚生活を守り通そうとする人もいるから、そのような場合に敗北しない方を勧めるのが正しいかどうかは又別の話だとは思うが・・。)

この後のところには次のような言葉が出てくる。

 彼はテーブルの一つにすわっている老夫婦を指した。
「そして、あの二人もだ。彼らは他の人のように愛の偽善に身をまかせはしなかったのだ。労働者のようだね。飢えと生活の必要から、彼らは協力して働かざるを得なかった。そして、RAMのことなど聞いたことがなくても、君が今やっている実習をあの二人は学んだのだ。協力して仕事をしている中で、彼らは愛の力を発見した。エロスがその最も美しい顔を見せるのはそこなのだ。なぜならエロスがフィロスと呼ばれる愛と結合しているからだ」(『星の巡礼』より)

結婚するまでの10年近くを働いて自分の自由になるお金を得ていた私は、結婚したすぐの頃、とても僻んだ感情を胸に抱えていたものだった。夫は教会から頂く謝儀を「これは君と僕の二人で貰ったものだよ」と言ってくれていたが、私は、自分の自由に遣えるお金はもう一円もないのだと暗澹とした思いに囚われていた。それまでは自分のためではなく誰かのためにお金を遣うとしてもそれは自分の意志でそう出来ることであったのが、これからは自分一人の意志で格好良くそうすることも出来ないのだと。そんなことを考えていて、今のところ私は意志を働かせて「富ではなく神に」仕えようとしているが、認知症などになれば「私のお金、私のお金」とたちまち「富」に執着して生きるようになるのではないかと、近頃よく思う。

「愛する」というのは自明のことではない。「自分は愛に溢れている」と自己満足してお目出度い人生をおくれる人は別だが、本当に愛そうとするなら、愛するとはどうすることかと、「私の愛する対象とは誰か」(キリスト教的に言うならば、「隣人とは誰か」)という問いから始まって延々と問うて明らかにする必要があるのだと思う。そしてこうすることが相手にとって良いことだ、相手を愛することだと思って行動しようとしてもなかなかそうはいかない場合が多いのである。そうすると(つまり自分が思い描いた通りの愛し方が通用しないとなると)、そこから神への問いかけが始まるのだ。私は「隣人を自分のように愛しなさい」(福音書という勧めに従って愛そうとしましたのに、どうしてあなたはそれをさせてはくださらないのですか、と。

私のような専業主婦の場合はやはり相手に対してどこかで負い目を感じている。いや、私の場合は、だが。私の夫は、「自分はパンのために働いている」とは思っていないと思うが、出張が立てつづけに続いたり、忙しさで疲れたりしている姿を見ると、「生涯食べ物を得ようと苦しんで、顔に汗を流してパンを得ようとしなくてはならない」(創世記3章)ということを思わずにはおれない。夫が、「他の女性に対して持っている愛のすべてを表現する自由が自分には十分にない」と思おうが、そんなことは知ったことではないけれど・・。

教会という場は利害というものを中心にして結びついている場ではないから、却って人と人との関係が素のまま出る場であるとも言える。人間関係で問題が生じない場というのはあり得ないもので、この世の教会というのも例外ではない。牧師の仕事をしばらく休ませてやりたいと思い、働きに出ようとしたことがあったが、長らく家庭に入っていた身が働いて一家を支えようとするのはそう簡単ではなかった。そして、夫の方も最終的にそれを選ぼうとはしなかった。

「愛する」というのは観念的、抽象的な事柄ではない。非常に具体的な行為や行動を伴うものであり、その状況に応じて行為や行動も変化していくものなのだと思う。そしてその具体的な愛そうとする行動が阻止されることは世の中にはいくらでもあるものなので、私などはその都度、無力感に陥り、自分の愛せなさに落ち込むのである。そしてそんな時に、ペトラスが言っているように、例えば「夫と一緒にいるために、働き続けていれば保ち続けていられたであろう財力ももはや二度と手にすることが出来なくなってしまった」などと思ったりもする。

この星の巡礼の第四章にペトラスの怒りに満ちたこんな言葉が出てくる。

「僕たちが自分を傷つけるために見つけ出したやり方の内で、一番たちの悪いものは愛によるものだ。誰かが自分を愛してくれないから、誰かが自分を見捨てたから、誰かが自分を放っておいてくれないからなどと言って、私たちはいつも苦しんでいる。一人きりだと誰も自分を欲していないからだと思う。結婚すると、結婚を奴隷制に変えてしまう。まったくひどいものだ」(『星の巡礼』より)
全くこのようなネガティブな思いを抱えた途上で結婚生活を中断すれば私などはいくらでも敗北できそうである。いや、結婚生活における戦いではなくて人生そのものにおける戦いに敗北できると思ってしまう。

それに対して、この本の後半には、こんな言葉が記されている。

サンチャゴへの道は私を「歩かせ」始めたのだった。
              ・
その声は私にただ、歩き続けなさいと言うだけだった。・・。道は私を本当に「歩かせて」いたのだった。
              ・
「主よ」と私は言った。やっと祈ることができたのだった。
「私はこの十字架に釘で打ちつけられてもいませんし、また打ちつけられているあなたも見ていません。この十字架には誰もかけられていません。そしてそれは、永遠にそうあるべきです。死の時はすでに過ぎ去り、神は今、私の中に再び生まれています。この十字架は、私たち一人ひとりが持っている無限の力の象徴です。今、その力がよみがえり、世界は救われ、私はあなたの奇跡を行うことができます。なぜなら、私は普通の人々の道を歩き、普通の人々とまじり合い、あなたの秘密を発見したからです。あなたは私たちの中へ、私たちがそうなることができるすべてを教えるためにやって来ました。・・」
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子羊は私を見つめて、その目で私に話しかけた。
              ・
今、子羊こそがサンチャゴへの道の私のガイドだった。
(『星の巡礼』より)


若い友人から本当に良い本を読むように勧めて頂いたと思う。星の巡礼の最後までを読んで、私はまた、ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛を手に取りたくなったのだった。

何はともあれ、普通の人々の道に来てくださった子羊に感謝を込めて、この記事を書き終えよう。
もうすぐクリスマスだ!