風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

エゼキエル書から

祈り会ではエゼキエル書から聴いている。「今、これを あなたが聞け」(イザヤ書47:8)と聖書が語っているように、今聞くべき言葉を与えられて聞いているのだと思わされる。

主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」(エゼキエル書9:4)
嘆き悲しむほかは何もできない無力な人間だといつも嘆いていた。けれど、その嘆き悲しむ者の額に神は刻印せよと命じられる。「行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者」に印をつけ、キリストの者としてくださるというのだ。「悲しんでいる人たちはさいわいである、彼らは慰められるであろう」(5:4)というマタイ福音書の言葉を思い浮かべた。

第六年の六月五日のことである。わたしは自分の家に座っており、ユダの長老たちがわたしの前に座っていた。そのとき、主なる神の御手がわたしの上に下った。わたしが見ていると、人の有様のような姿があるではないか。その腰のように見えるところから下は火であり、腰から上は琥珀金の輝きのように光輝に満ちた有様をしていた。彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。(8:1~4)
主は亜麻布をまとった者に向かって言われた。「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」と。彼は、わたしの目の前で入って行った。その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に止まっており、雲が中庭を満たしていた。主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。ケルビムの翼の羽ばたく音は外庭にまで聞こえ、全能の神が語られる御声のようであった。(10:2~5)

偶像崇拝に満ち、今まさに燃える炭火をまき散らされようとしているその場にあって、なお神は臨在し給い栄光を現されるという。そして、「神はこの地を見捨てられた。神はこの地を顧みられない」と言う者を憐れまない、と言われる。神の臨在を信じること、神の栄光が現されることを待ち望んで生きることが私達キリスト者に求められている。

この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」(9:9~10)