風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

知らずにわかれた人びと(室生犀星=詩)

   ある日
            室生犀星
私は雨がすきである
雨はいつも私を机のそばにつれてゆき
喜ばしい落ちつきを与へ
本を手にとらせる
この世界に小さな座を与へてくれる

     室生犀星詩集』(彌生書房)より


若い頃、室生犀星のこんな詩が好きだった。
けれど、メモっていたノートもどこかへ行ってしまい、図書館の詩集には載っていない。
それで、インターネットで探してみた。


  知らずにわかれた人びと

知らずにゐたら
永く知らないでゐたことにならう、
このまちがひの大きさ、
つかまへられないままに
何処かに去つてしまつたものは
ふたたび戻つてくることはない、
ほんのわづかな隔たりがあつたために
女と男とはあかの他人になつてしまひ、
歳月もまた無為のものになる、
それをただ見送つてゐたらいいのか、
それともいまから趁ひかけて見るか、
知らずに永く
わかれた人びとの睫もくろく
何とその数の多いことだらう。

「趁ひかけて」=「おひかけて」


「このまちがひの大きさ」というフレーズが私の胸から去ってしまわないでいつまでも居座っていた。
「詩人は決定的な誰かに出会ってしまったのだ」と思った。出会ってしまったために、出会わなかった人生の間違いの大きさを想うのではないか。それともそれは凡庸な人間の考えることだろうか。詩人は、出会わずとも「知らずにわかれた人」に想いを馳せるのだろうか。

「出会うこと」のかけがえのなさをうたった詩が、犀星の詩の中には多くある。