風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

城址の〜秋と、セレンディピティ

城址の大天井なる秋の空

城址のがらんの舞台を秋の風

上記「右脳と左脳の話」は、非常に興味深い記事。

詩や短歌も同じかも知れないが、中でも俳句は、言葉によって映像を見させる文芸なのではないかと思う。そういったところからして、俳句は左脳も右脳もほぼ同時に使うように思われる。

けれど以前、何かで、左脳と右脳が同時に働くことはない、どちらかが働いていると片方は休んでいると書いているのを読んだ記憶がある。

セレンディピティなども、左脳が考えに考えて限界にぶつかり、考えるのを止めた時に、右脳が働いて全く次元の違うところへ導いていくということではないか、と思ったりする。けれどこの時、より高次の真理へと行き着くために、一見無駄であったかのように見える左脳の考え抜くという過程が必要だったのではないか、と私には思える。

こんなことを考えていくと、左脳右脳の話だけでは終わらなくなりそうだ。俄に「脳梁」という部位が思い起こされてくる。

この記事の中で引用されている神経解剖学者の体験を読むと、右脳の世界というのはまさに自閉症の人々の世界のように思える。自分の体の境界が分からないというのは、自閉症児が早期に体験する世界ではないだろうか。

さて、私の俳句のようなものは、読んでくれる人の頭の中に映像を浮かび上がらせることが出来ているだろうか(笑、苦)。