風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

御言葉(説教)に聴く

「御言葉(説教)というのはどのように聴けば良いのだろうか」と、この何年かずっと考えていた。

礼拝における説教というのは神の言葉であるけれど、その神の言葉は牧師という人間を通して語られる。この御言葉を聴くときに大きく逸れていく方向が二つあると思う。一つは、牧師に心酔して、この牧師の語ることは絶対だと思いつつ聴く聴き方。もう一つは、語っている牧師自身の生き方が語っていることと違うだろうと批判しながら聴く聴き方。私は、このどちらも聴く者を信仰から遠ざけてしまう、と思う。特定の牧師に心酔して聴くなら偶像崇拝に陥る。批判しながら聴いたのでは生きる力にならない。私たちはこの言葉によって生きているのだから。では、どういう風に聴けば良いのだろう。

洗礼を受ける前の準備会で牧師から語られた言葉を今になって思い出す。教員養成課程の学生だった私に牧師は、「もし、教会も無い僻地に赴任したとしても、自分で信仰を保ち続けていけるといいですね」と言われたのだった。幸い、私が教員になって僻地に赴任した頃には自動車も普及していて礼拝にも祈り会にも毎週行くことが出来、一人で信仰を保ち続けなくてはならない危機には直面しなかったのだが。けれど、牧師がちゃんと教会に居て、毎週御言葉を聴くことが出来ても「自分で信仰を保ち続ける」ということは必要だったのではないかとこの頃になって思うのだ。

信じるというのは盲目的になることではない。信じるというのは自分の頭で何も考えなくなるということでもない。信じるというのは、御言葉に聴くというのは、むしろ神の心を、神の考えをどこまでもどこまでも追い求めていくことではないだろうか。

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。(ピリピ人への手紙3:12)
牧師というのはそれを求めて聖書の御言葉に聴き、信徒に伝える務めを担う者なのだ。けれど、牧師と言えども完璧ではない。神は牧師という欠けのある人間を用いて御言葉を語らせ給うのだ。それを聴く私たちはそのことを心に留めて聴かなくてはならないと思う。つまり、説教は神の言葉であるということと欠けのある人間によって語られるのだということ、その両方を心に留めて聴くということではないかと思う。

牧師の欠けを受け止めながら、補いながら聴くーそのためには、自分自身が神の言葉に聴き続けていなければならない、ということだと思う。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマの信徒への手紙10:17)