風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

一番小さいものこそ大きい(ルカによる福音書9:43~48から礼拝説教抜粋)

このルカによる福音書9章は、イエスガリラヤの伝道を終えられて十字架につかれるためにエルサレムへと向かっていかれる、場面が大きくかわるところであります。
この9章の前半の部分において、ガリラヤでの伝道のいわば総括のような形で弟子たちに「私は誰だと思うか」と問われ、ペテロが代表して「あなたは神の子キリストです」という告白をする。この告白を受けて、イエスは御自分がエルサレムで苦しみを受けられること、十字架のこと、復活のことを語られる。その後3人の弟子をつれて山へと登られ、そこで神がこれまでなされてきた御業が今イエスキリストによって成就されようとしているということを明らかにするできごとが起こる。イエス一行が山から下りてくると、麓では大勢の人が集まっている。そこに、息子が霊に憑かれて苦しんでいるという父親が癒してほしいとやって来たけれども、イエス不在の中で弟子達にはそれを癒すことができなかったというようなことが綴られてきました。

そのイエスの癒しの出来事をみて、人々は神の偉大な力に非常に驚いた(43節)。そしてみんながイエスのなさった数々のことを不思議に思っているとイエスは弟子達に向かって語られます。「あなたがたはこの言葉を耳に収めておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」(43~44節)ーこれは2回目のご自分の死の予告であります。
22節のところでも、ペテロの信仰告白のあと、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして3日目によみがえるということが語られました。このことが語られたのは、5000人を越える人々に食べ物を与えるという奇跡がおこなわれ、ペテロが信仰告白をした後であります。
今回は弟子達が出来なかった霊を追い出して子どもを癒すという奇跡が行われた後、このことが語られるのです。この人々が驚くような大きな奇跡が行われた後で、ご自分の死について2度にわたってお語りになられた。
奇跡の後に「十字架」が語られたということは、十字架につけられるという出来事が、イエスが無力だから、力が足りないから捕らえられるのではないということであります。このように誰もなすことのできない奇跡をおこなう大いなる力が主イエスにはある。けれど、その奇跡をおこなう力をこのお方は救いのためにどのように用いようとしているのか。それはこれだけの力があるのに、この方は私達の救いのために御自分の命をお捧げになるのだ、そのことが告げられているわけであります。

けれど聖書にあるように、弟子たちはイエスが語られたことがなんのことかわかりませんでした。聖書は、それが彼らに隠されていて悟ることができなかったという風に告げています。聞いただけですぐ分かるものではなかった。隠されていた。そしてさらに弟子たちは、そのことについて尋ねるのを恐れていたといいます。(45節)
なぜ、弟子たちは恐れていたのでしょう。
「人の子は人々の手に渡されようとしている」そういう風に言われた時に弟子たちは「イエス様はまたご自分の死のことについて言われているのだろうか」と思って不安になる。そしてそのことを弟子たちは聴きたくなかったのであります。

この聖書朗読と説教の前に「聖霊がそそがれ、私達が、あなたの御心を知ることができますように」と短い祈りを祈っておりますけれども、私達がそれを求めていけるのも、神が一人子を遣わすほどに世を愛していて下さるからです。どんなに厳しい言葉が語られているように見えても、神がそれをお語りになるのは私達を罪から、死から、救い出して、御自分のもとに立ち返らせる、キリストの永遠の命に預からせるためであります。その神の思いが聖書から明らかにされているので、私達は神の言葉をより好みしないで、聞きつづけていくことが出来るのです。ここにわたしを命へと導く神の言葉がある。混沌としていて私の人生がこの先どうなっていくかわからない。けれども神の言葉は、その混沌とした世の中に道を開き、神の国・永遠の命へと私達を導いていくことを私達は知っているので、神の言葉に聞きつづけていくのであります。

さて、神の御心を求めようとしない、知ろうとしない弟子たちがどこへと向かって行ったかといいますと、自分達の内で誰が一番偉いだろうかということで議論をはじめる(46節)ことでした。神の御心を求め従おうとしないときに、人は自分の正しさであったり、自分の偉さを主張しようとしはじめます。罪があらわになっていきます。なぜこのようなことが始まったのかということを具体的には聖書は書いておりませんが、考えられることは、例えばこの山に登ってモーセとエリヤと出会われた山上の変貌と呼ばれる出来事の時にイエスは3人の弟子だけを連れていかれました。ペテロとヨハネヤコブであります。他の9人の弟子たちは麓に残された。そして、その残っていた弟子たちはこの霊に苦しんでいる子どもを癒すことができなかった。「何をしているのか」という風な態度を、イエスと一緒に山に登った弟子たちは示したかもしれない。山で見たことをそれとなく「自分達はお前達の知らないすごいことを経験したのだ」と、におわせたかもしれない。そういう中で誰が一番偉いかと、そういう議論になっていったのかも知れません。
するとエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼子を取り上げて、自分のそばに立たせ、彼らに言われます。「誰でもこの幼子を、私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのである。そして私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなた方みんなの中で一番小さいものこそ大きいのである」(47~48節)このようにお語りになりました。
誰が一番偉いだろうか、誰が一番大人物なのか、誰が一番大きいのかという様な事を議論している中で、「みんなの中で一番小さいものこそ大きい」とイエスはお語りになります。弟子たちは自分達12人の中で、誰が一番偉いか、誰が一番大きいのか、そういう風なことを議論しておりますけれども、本当のところ弟子たちは皆小さいのです。この世にあっては取るに足りないのです。
そして、神の言葉を述べ伝えていくということは、取るに足りない小さい者の言葉を受け入れてもらうということです。世界の果て、無名の人々、そして力無き幼子によって救いの業をなされる神の御業はこの世では小さいのです。けれど、神が選び用いられる小さなものこそ、計り知ることのできない偉大な神をあらわすのです。それがこの世に属さない、私達の目に見えるこの世界に属さない、神の出来事です。

キリストは私達の救いのために小さな者となって下さいました。神の持つ無限とか全能とかそういったものを捨てて、限りある小さな者となって、食べなければ飢え、井戸のそばに座りこんで水を汲みに来た女性に「水を飲ませてくれないか」と頼むようなヨハネによる福音書4:7)、そういう小ささ、弱さを持ってキリストは私達のところに来て下さいました。そしてそのキリストは無力な十字架の死を負って下さったのです。キリストにおいて神の限りない愛の御業がなされました。キリストを信じる者、キリストに従う者はそのことを聞いて知らなくてはなりません。自らの小ささや無力さを嘆かず、いと小さきところ、無力なるところで、御業をなし続けておられる神を信じて生きるのです。

神は今、私達の日々の生活・歩みをお用いになっておられます。すべては神の恵みの御手の中に置かれています。神が用い導いておられます。私の人生に虚しいことなどひとつもない。神が私の人生の始めから終わりまでを愛し抜いて下さっているから。この私を救うために、この私の人生をキリストと結び合わせて下さったのだ。そう聖徒たちは信じて、神にゆだねて歩んでまいりました。
私達もこの年、十字架へと進まれるキリストを仰ぎ、従いつつ、神の御業に仕え、私達の人生を用い抜いて、祝福して下さる神を喜んで、歩んでまいりたいと思います。