葛原妙子の随筆集『孤宴』の中に「聖母像妄語」というものがある。抜粋引用してみたい。
家族のひとりがもって来た某誌、聖母特集号をひらいた。
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黒聖母は後頭部に円光を負うてはいない。頭に密着したベレー帽のごときをつけているに過ぎず、この神ならざる自覚はよい。
神なる無限者キリストから、神ならざる有限者マリヤへの信仰の移行のきざしは、すでに五世紀以来と聞くが、ことにロマネスク時代からゴシック時代にかけて建立された、ノートル・ダムつまり、われらの母よ、を冠した大寺院の夥しさは驚くばかりである。
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聖母子が信者の風俗に近づいて仄かに優雅通俗になりはじめるのはゴシック時代あたりからであって、あらわにヴィーナスの面影に近づくのは以降ルネッサンス期であるようだ。
まるまると肉づいた薔薇色の赤ん坊を抱いた処女マリヤは、いやおうなく人間官能の圏内に踏み込まざるを得ないとして、いまもっとも手近な例をローマ・サンピエトロ寺院の著名な「悲傷(ピエタ)」にみることが出来る。
白大理石のこの像はミケランジェロの幾歳のときの制作であるかをしらないけれども、磔刑から引きおろされた白晢の青年キリストの長身を着衣の膝に抱きかかえたマリヤは、キリストのおもいびとさながらの乙女であって、この場は断じて「悲傷(ピエタ)」ではない。
(『随筆集孤宴』葛原妙子=著(小沢書店)より引用)
「神ならざる自覚はよい」というのは可笑しいが、「神なる無限者キリストから、神ならざる有限者マリヤへの・・」という捉え方は、真に鋭く教理の核心を突いているように思う。
次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
(ローマの信徒への手紙3:10)
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り・・。すべての人が罪を犯したからです。
(ローマの信徒への手紙5:12)
幼い頃から母の愛情を知らないで育った妙子にとっては、有限者(人間)であるマリアを完璧な愛を抱く聖母として拝むカトリックの信仰は受け入れがたいものだったのではないかと推察する。
燐寸の焰白日光に色なけれ腕もげしヴィナスのしづかなる像『飛行』
明るみを忌むかほなれば向日葵の殘れる花冠の陰に坐すべし
暗䖝に翳れるわれにちかづきつ抱擁(だきしめ)を乞ふ末なる少女(をとめ)は
やはらかに子を押しもどすわが顏のわづかに攣(つ)るるをみのがし呉れよ
「葛原妙子10」で、私は『飛行』の中のこの四首をとりあげたのだが、この一首目は第七歌集『朱靈』の中の次の短歌に繋がっているように思う。
上膊より缺けたる聖母みどりごを抱(いだ)かず星の夜をいただかず『朱靈』
腕のもげたヴィナスも、罪の世にあって末娘の求めに応じられない自分も、上膊から腕の欠けた聖母も、妙子にとっては、子を抱けないという限界を有する者として同じ線上に立っているものと思われる。
又、『朱靈』には次のような二首が連なっている。
肉身の均衡あやふきわれがたまたま虚空の橋をあゆめり『朱靈』
橋上にたたずむわれに朝の街霧のごとくに旋回しそむ
一首目の「肉身」は、本来「生身の体」という意味だが、この短歌の中では肉体的な繋がり、血縁というようなものを表しているのではないかと私は思う。肉親(人間)の愛の上に自己の存在の基盤を置こうとすれば、妙子にとっては存在の基盤がないということになる。上の二首は、虚空の橋を歩む真に心許ない己の姿を描き出していると思う。
第八歌集の次のような短歌を見れば、肉身の愛によらない、血縁を超えたものをキリストの中に見いだそうとする心情が窺われるように思われる。
魂を人の肉より離したるイエス・キリストの頰髯『鷹の井戸』
けれど又、晩年の作品の中には次のような歌がある。
雪花石膏(アラバスター)うづまきゐしのみサン・ピエトロ寺院の祭壇に偶像をみざりき『をがたま』補遺
この歌は、「聖母像妄語」の中で「断じて「悲傷(ピエタ)」ではない」と妙子をして言わしめた聖母子像が置かれているカトリックの総本山を詠んだものだ。偶像とは、神でないもの(人間)を神として造形したものを言うのではないか。もちろん祭壇には聖母子像は置かれていないだろうが、「神ならざる有限者マリヤ」が拝まれる寺院に「偶像は見なかった」と、この時の妙子は詠んでいるのである。これはいったいどうしたことだろうか。
私達は、牧師であるとか神学者であるとかでない限り、教理を徹底的に吟味して自ら教派を選ぶというようなことはないだろうと思う。私自身も最初に行った教会は、そこに教会があると外から見てすぐに分かる建物だったという理由で、行った。洗礼を受けたのは学生の頃だが、それも、住んでいた場所から歩いて行けるところに見つけた教会で受けた。そして故郷に帰るというので「教理的にも一番近い」という理由で牧師から勧められたのが、たまたま最初に行った教会だったのだ。以来私は、今に至るまでその教派の教会に属している。そこに働いていたのは、出会いとか、縁とか、導きといったものであると思う。
葛原妙子も、有限者マリヤを崇めるカトリックに受け入れがたいものを感じながら、晩年には人間の考えを超えた導きを受け入れるようになっていたのではないか、と推測する。
猪熊葉子さんの『児童文学最終講義』では次のように語られている。
大学を卒業すると同時に、私は結婚しました。私の連れ合いになった人物は、・・。・・、私と結婚したことで・・信者になりました。・・。そして聖心で勉強した、私の妹たちも信者になりましたし、・・信仰を持つ者が一族のなかに徐々に増えていきました。
でもそういうなかで、私の母は・・宗教そのものについては断固受け入れ拒否を続けていました。・・。・・、ある日訪れた私に「やっぱりあなたたちと一緒になりたいわ」とぽつんと洩らしましたので、・・母はマリア・フランシスカ葛原妙子になりました。
(『児童文学最終講義しあわせな大詰めを求めて』(すえもりブックス)より引用)
血縁の上に自己の存在の基盤を置くことに抵抗してきたであろう妙子がこのように呟いたのは、娘達を通して恵みへと招き入れようとしておられる神の導きを受け入れた証ではないか、と私は思う。
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが纍々と子をもてりけり『橙黄』と詠い、
一瞬のわれを見いづる父なく母なく子なく銀の如きを『葡萄木立』と詠った妙子であったが、その子達を通して、血縁を超えて自己の存在を根底から支える神の恵みの中へと入れられたのである。
暗䖝に=暗緑に
特記
この記事はカトリックの信仰を批判、否定するために書かれたものではありません。
私の所属する教会は「使徒信条」の中で「公同の教会、聖徒の交わりを信じます」と告白しています。カトリック教会はこの「公同の教会」に入っています。