風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

百倍もの実を結んだ(ルカによる福音書8:1~10)

2月12日の礼拝説教は、ルカによる福音書8章1節から10節のところからだった。ここには、11月の聖書研究会のテキストだったマルコ福音書4:11~12の中にある難解な言葉と同じような言葉が記されている。
弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。(ルカ8:9,10)エスの譬えの解説がこの後に続くのだが、12日の礼拝ではここまでのところが話された。

8章の冒頭に、福音を伝えて回るイエスに12弟子が従っていたが、弟子達の他にも多くの婦人達が付き従って奉仕していたということが述べられている。イエスは、イエスに従う者達を連れて町や村を回り、大勢の群衆に福音を語り伝えていたのである。ここでは、その大勢の群衆に向かって種まきの譬えが語られている。


聖書は、家で一人で読んで良く分かるというようなものではない。昨年末、自分にとっての人生の節目のような年齢を迎えたので休暇を取って聖書を読もうと思うと言って、英語の聖書と日本語の聖書を借りに来られた方がいた。読んで返しに来られた時の感想は、「まるでおとぎ話のようで、自分とは何も関係がないように思えて・・」というようなことだった。


12日の礼拝では、この難解な部分は次のように語られた。「神の国の奥義、神の国の秘密、神の国の福音は、神に従い、神と共に生きるのでなければ分からないのだ」「習い事や技術の習得は説明書を読んだだけでは分からない。実際に繰り返しやってみなければ、本当のところは分からない。神の国の奥義も理解されやすいように譬えを用いて語られるが、それを聞いただけでは本当のところを理解することは出来ないのだ」と。このことが語られてから、説教題の「百倍もの実を結んだ」のところへ戻った。

「ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。(ルカ8:8)
私は、「聞く耳のある者は聞くがよい」という言葉を聞くと、「聞きたい者は勝手に聞けばいい」と冷たく突き放されたような気がしていたのだが、イエスは声を大きくして「聞く耳を持って、良く聞きなさい!」と言われたのだという。神を知り、神と共に生きて、百倍の実りを受けるために、「聞け!」と、大勢の群衆に向かって語られたのだと。この日、「百倍もの実りを受けるために、あなたも聞きなさい!」というキリストの声が、私にも聞こえたように思った。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマの信徒への手紙10:17)
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