風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

聖書研究(マルコ3:28〜29)

9月の聖書研究の聖書の言葉はマルコによる福音書3章28節、29節だった。


はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(新共同訳)

よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。(口語訳)

聖書研究会では、牧師が用意したギリシャ語の原文、様々な訳文、註解書の抜粋などを読み、疑問を出し合ったり感想を語り合ったりする。

9月の聖書研究会では、終了間際に、長老の一人が「まだ釈然としない」と語られた。牧師であっても聖書の全てを理解しているわけではなく、長い年月信仰の道を歩んでこられた長老であっても聖書を読んで簡単に理解出来るとは限らない。神の御心を知ろうとすることに果てはないのだと思う。けれど、その途上にあって神の恵みが分かったと思える経験は大きな喜びとなる。そのような喜びの経験を積み重ねていきたいものだと思う。

私がこの時注目したのは、「どんな冒瀆の言葉も赦される」という言葉だった。もちろん、「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されない」という言葉を軽く見るつもりはないが。しかし、神さまは私たちのどんな悪口(あっこう)をも受け止めてくださるということに改めて目を見張らされる思いがした。
預言者ハバククも、「わたしが助けを求めてさけんでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに あなたは助けてくださらない」(ハバクク書1:2)と神を詰っている。
私たちはいつもいつも良い子ぶって感謝ばかりしていなくてもいいのだ。胸の内の苦しい思いも不平も不満も訴えて良いのだ。そういう言葉でさえ神さまは受け止めて聞いてくださるのだ、と思ったのだった。