風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「よろしい。清くなれ」(マルコによる福音書1:40~45)

  「よろしい。清くなれ」

 

 2022年10月23日(日) 聖霊降臨日後第20主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章40節〜45節

  

 イエスガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出している時に、重い皮膚病を患っている人がイエスのもとにやってきました。 ここに「重い皮膚病」と出てきますが,新共同訳聖書の最初の版は「らい病」と訳しています。この病気は、現在は、ハンセン病と呼ばれています。1996年に「らい予防法」が廃止されたことによって「らい病」という表記は差別的な不適切な言葉となりました。それに伴って1997年に「らい病」という表記が「重い皮膚病」に変更されました。「ハンセン病」ではなく「重い皮膚病」となったのは、聖書に記載されているものすべてが必ずしもハンセン病でない可能性があるとの観点からです。

 ただ、私たちが心に留めておきたいのは、単に言葉の置き換えだけだと抜本的な解決にはならない、ということです。言葉をなくしても、心が変わらなければ、差別はなくなりません。かえって新しい差別用語を生み出したり、見えにくい差別を助長する恐れもあるのではないかと思います。 さらに大事なことは,イエス キリストはわたしたちを罪から救うために、罪の世のただ中に来られたということです。様々な配慮の結果、罪の現実を薄めてしまうようなことになると、救いの恵みをも、薄めてしまうことになりかねません。聖書には様々な人間の罪が描かれています。それをいろいろと配慮して訳を変えたり、印象を薄めたり、説教で取り上げるのを止めてしまったりしたら、罪に対しても、そこから救われるということに対して、底の浅い理解しか、もてなくなる恐れがあります。キリストが本当に罪から救ってくださることを知るには,本当の罪を知らなくてはなりません。

この根本的なことを見失わないようにしたいと思います。

皮膚病については、レビ記13章と14章に規定が記されています。ここでは衣服や家屋に生じるカビについても言及されています。「重い皮膚病」にかかっている人については、こう書かれています。レビ記13章の45節と46節、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「45 わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。46  この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」。

 

皮膚病は、その症状が、外見にあらわれたので、人々に恐れを生じさせました。そして人々から離れて暮らさねばなりませんでした。もちろん神殿に行くこともできません。 イエスのところへ来た人は、大きな決断をして出てきました。彼は、町の中に入ることはできませんから、おそらく食事などを届けてくれる家族に助けられて、町の外でイエスを待っていたのでしょう。人が間違って彼に触れて汚れを受けることがないように「わたしは汚れた者です」と離れた所から言わなければなりませんでした。その彼が、イエスの目の前に出てきたのです。律法違反を理由に処罰されるかもしれません。大騒ぎとなり,石で打たれて死ぬかもしれない。しかし、彼はイエスを信じました。「御心ならば清くすることができる」と信じました。どれほどの汚れも、どのような病も、どんな掟も、イエスの前に立ちはだかることはできない,イエスの愛を妨げることはできないと、信じたのです。もちろん彼は、イエスに会ったことはありません。食事を届けてくれる者たちからイエスの話を聞いただけです。しかし、彼は見ないで、信じました。イエスは、まさしく福音、良き知らせでした。

彼は決断しました。イエスの前に進み出る決心をしました。そして、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。 彼は「御心ならば」と言いました。彼は、病と孤独の中で、何度も何度も、自分の存在の意味を問うたのでしょう。その中で、彼は、自分のものであっても、自分のものではない命を知ったのではないでしょうか。自分に与えられた命。それは、神ご自身のものであり,神の御心によって与えられ、導かれるものです。だから彼は「御心ならば」と言ったのではないでしょうか。 彼は「清くすることがおできになります」と言いました。「癒すことがおできになります」ではなく「清くすることがおできになります」と言いました。聖書において「汚れ」というのは、わたしたちが普段使っている意味とは違い、「関係を築けない状態」を指します。彼は、この病のために、隣人との関係を築くことができず、神殿にも行けず、神との関係も失われているような状態にありました。もちろん、清くするとは病気が癒されることも意味しています。けれども,彼の言葉には何が本当につらく苦しいのかが表れているように思います。 彼の言葉を聞いて、イエスは深く憐れまれました。神のかたちに創造され、神の愛によって生きるはずの人間が、病の故に関係を築けず孤独の中に生きている。そして命がけの決断をして自分の前にやってきた彼を見て、イエスは激しく心を動かされました。そして、深く憐れみ、手を差し伸べて、その人に触れ「よろしい。清くなれ」と言われたのです。

エスは、彼に手を差し伸べて触れました。自ら大声をあげて「わたしは汚れた者です」と言って、人を遠ざけなければならない彼に、イエスは手を差し伸べて触れたのです。言葉だけでも癒すことはおできになりますし、実際にそのような癒しをおこなった例が聖書に記されています。

しかし、イエスは、彼にあえて触れました。誰も触れられない、触れてはならない彼に、イエスは、触れたのです。彼が信じたように、汚れも病も掟もイエスを妨げることはありませんでした。 41節の「よろしい」と訳されている言葉は「わたしは願う。わたしはそれを望んでいる。」という言葉です。イエスの彼との関係を築こうとする意志が、彼を求めて止まない愛が、彼を清めるのです。たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなりました。 

彼の喜びは、どれほどであったでしょうか。計り知ることはできません。ところが、イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし,厳しく注意してこう言われたのです。44節「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」彼は癒しを喜びました。けれども、癒しだけに心を奪われてしまうと、イエスは単に癒しを行うだけの人になってしまい、イエスが何を願って、清めてくださったのかを見失ってしまいます。ですから、イエスは、彼が律法に従って、清めの儀式を行うことによって、社会に復帰し、人々との関係を築くようにと命じられたのです。

まさにイエスによって、彼は清められました。

さらに、人々がイエスを、ただ癒しの人、奇跡の人として錯覚しないように黙っていなさいと、命じられました。しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、

言い広め始めました。彼はこの喜びを語らずにはいられませんでした。イエスを信じ、イエスを喜ぶ者でありましたが、イエスの思いとは、ずれた従い方をしてしまいました。これは、罪あるわたしたちには仕方がないことなのかもしれません。けれども,そのせいでイエスは、もはや公然と町に入ることができなくなり,人がいない町の外に行かなければならなくなりました。

まるで、町の外にいなければならなかった彼の重荷をイエスが代わって負ってくださったかのようです。彼は町の中へ入り,イエスは町の外へ出て行ったのです。

  しかし、それでも人々は四方から、イエスのところに集まって来ました。イエスが出て行かれたことによって、隔てていたものが取り除かれ、人々がイエスのもとへと向かうのです。わたしたちのために人となって世に来られたイエス、激しく心動かしてわたしたちの清めを願ってくださるイエス、この主の御心によってわたしたちは救いへと入れられるのです。 教会はキリストに従い、病める人、世から隔絶され関係を築けない人と共に歩もうとしてきました。癒しの賜物を与えられたものは癒しの業に仕えました。もちろん、すべての人が癒されたわけではありません。パウロのように重荷を負うことを求められた人もいました。

しかし、教会は主にあって共に歩みました。要となるのは、主と共にあるということです。わたしたち自身ではなく、主ご自身が清めてくださるからです。わたしたちは、今も生きて働いておられる主を、しっかりと見ているでしょうか。わたしたちに先立って進む主と共に歩んでいるでしょうか。わたしたちが、まずしなければならないのは,重い皮膚病を患っていた彼がすべてを抱えたままで、イエスの前に進み出たように、主が憐れみの御手をわたしたちにも、差し伸べてくださる、そのことを固く信じ、深く憐れんでくださることを信じ、すべてを抱えたままでイエス キリストの前に進み出て願うことなのです。わたしたちのすべての恵みは、イエス・キリストから来るからです。

 祈ります。

 

昨日代読して頂いたこの説教では、冒頭の部分を書き換えて下さっている。

 

元々の原稿は段落も設けず、びっしり書き詰めている。

元々の原稿はこちら↓

「よろしい、清くなれ」(マルコによる福音書1:40~45) - 聖書の言葉を聴きながら

 

礼拝での説教は、基本的には目の前にいる群れに対して語られるものという側面があると思う。

そういう意味ではやはり、今、この群れが聞くにはそぐわないという点が出て来たりする。過去の説教の代読を私がお願いしたのではあるが・・。

 

しかし又、先日お迎えした老齢の教師の研修会では、「説教は、この空席に幻のように市民が満席になって座り、説教に聞き入っているかのごとく語られねばならない」という神学者の言葉を引用して語られたように、説教の射程は目の前の教会の群れを越えている、とも言えるのだろう。