風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

夏目漱石『夢十夜』「第三夜」、再び

夢十夜』が見つからないまま、再び、「第三夜」について書こうとしている。本当はもう一度読み返してから書きたかったのだが・・。

「レヴィナス」と、夏目漱石『夢十夜』「第三夜」について書いていて、それまで、一方向からの罪の自覚とばかり捉えていたのが、そうではなく、これは双方の罪について描いているのではないかと思ったのだった。
「第三夜」において、「殺したという(罪の)自覚が、忽然として頭の中に起った」のは、子を負ぶっている親の方に、なのである。けれど、私の中では、親に重荷を負わせている子の側の罪として自覚されたのだ。

「私は他者を知るより先に、存在しなかった過去のあるときに、他者にかかわりを持ってしまっていたのです。(EL=『暴力と聖性』,p.114)」(内田樹=著『他者と死者』(文春文庫)より)
レヴィナスのこの言葉は、親子の間でも当て嵌めることができるのではないだろうか。むしろ親子の間に当て嵌めた方が、より理解できそうに思える。生まれてくる以前から、子は親とかかわりを持ってしまっており、親も子とかかわりをもってしまっているのである。
「罪ある者として母は私をみごもりました」(詩編51:5)

「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉がある。昔、お土産物の置物にこの言葉を書いたものが家にあって、「これは一体、どういう親心なのだろう」と子供心に訝しんでいたものだった。これはやはり、「はやく成長して子育ての重荷から解き放ってくれ」ということではないか、と思える。『夢十夜』「第三夜」の中でも、負ぶっている子を捨てる場所を探しているのである。
親は子を遺棄しようとする形で、子は親に重荷を背負わせるという形で「罪」が描かれているのだ。

岡田尊司=著『愛着障害には、漱石の幼少時がとても悲惨なものであったことが記されている。けれど私は、恵まれない幼少時をおくったために漱石の人生観や人間観が歪んでしまったとは思わない。むしろ特殊な幼少時であったからこそ、人間存在の深みを見たのだと思えるのである。

岡田尊司=著『愛着障害』(光文社新書には参考文献として、江藤淳=著『漱石とその時代』等があげられている。


だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもいない。(ヨブ記14:4)

けれど、上橋菜穂子の『闇の守り人』を読んで私は、「重荷であった存在が錘(おもり)となって、その人を支えている」ということがあるのかも知れない、と思ったのだった。
過去記事『闇の守り人』→http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20110718/p1


わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(ヨハネによる福音書14:18)


● 1965、1995、オウムと骨法、生き恥を越えて生きること
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本がある。
(中略)
 皆んなそうやって、1995年を越えて生きていくものだと思う。生きなければいけない。
 その後の「恥をかかないで済んだ」世代にしたところで、2025年あたりにまた大転換がくるかもしれない。その時には、今の現実がフィクションになり、大恥をかく人たちもいるだろう。でも、生きなければいけない。
 後からやってきて「バカなことをやっていた」というのは簡単だけれど、その中を生きていて、転換を抜けて振り返り、なお生きるということは、必ずしも簡単なことではない。でも、生きなければいけない。(抜粋引用)