風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

昨年末の毎日新聞の1面記事から「エコキュート」と「STAP」について


● 第882回 取り替えのきかない”いのち”
 そしてもし写真が、現在の横暴な言葉の使われ方に追随するしか能のないものであれば、世界と人間の関係を、さらに硬直したもの、もしくは無関係であるかのようにする働きを、言葉以上に発揮してしまうでしょう。
  写真は、言葉が決めつけた善悪や、豊かさの定義や、立派さの基準を映像力で強化することができます。また、大事なことから目を逸らさせるために、世界(他者)の事実と向き合うことなく自己完結的に、自分がかってに作り上げた心象風景に浸れるツールにもなります。また、言葉よりも写真の方が、きれいとか汚いとか、好き嫌いの分別が直観的に行なわれやすいため、至るところで人気コンテストのような催しや、客寄せの展示会が行なわれ、消費社会と相性の良い集客イベントになりやすい性質があります。それゆえ、大量生産、大量消費社会の中のポジション取りの競争が、写真表現に携わる者にとって大事なことになってしまいます。それは、写真に限らず、どんな表現活動においても同じですが、とりわけ写真は、広告表現などで重宝されているように、時代社会に媚びやすく、利用されやすい性質を持っていると言えるのではないでしょうか。
 それでも、写真には、言語が固定化しがちな世界認識を覆す力があると私は信じています。(抜粋引用)

● 第881回 間(あはひ)の妙を伝える写真
 もともと写真というのは、世界との媒介です。
 媒介というのは、こちらとあちらをむすぶものであり、同時に、こちらとあちらを分ける境界でもあります。つまり、あはひ(間)に存在するもの。
 だから、写真家の能力というのは、そういう媒介者としての能力であり、魂が、こちらの現実に居付きすぎてもダメだし、あちらに完全に行ってしまってもダメです。
 そのギリギリの境で踏みとどまらなければなりません。(抜粋引用)

● 低周波騒音で3人に1人不調 京都・京丹後の米軍基地周辺

今は仮住まいで新聞はとっていないし、新しい家に引っ越してからも新聞をとるかどうかは未定なのだが、昨年末までとっていた毎日新聞の1面の記事についてそのうちブログに載せようと思い手元に置いていたのだった。以下に写真で掲載する。


この頃の我が家にとって「エコキュート」の情報はとてもタイムリーで「よくぞ1面に載せてくださった!」と思ったのだが、STAP記事には押しのけられた感がある。もっと言えば、「エコキュート」の問題は原発に反対している人々にとっては結構重大な問題のようなのだが、1面には載ったもののSTAPによって脇に追いやられた形なのだ。けれど私も、「エコキュート」については又後日取り上げることにして、ここではSTAP記事について書くことにする。

STAP細胞」は昨年一年にわたって世間で騒がれてきたのだが、今年に入って、この記事を書いた須田桃子氏によって本が出されたようだ。この本を紹介しているブログがいくつかあって読ませていただいたのだけれど、どうもこの本を購入して読もうという気にならないのである。それはおそらく、この新聞記事を読む限りで、この記者の文章の中に誠実さに欠けるものを感じるからなのだと思う。

新聞記事は、八田浩輔氏と須田桃子氏によって書かれている。大きな見出しの「STAP存在 否定」というのは、八田氏のSTAP細胞の存在は証明できず、事実上否定された」からとられていると思われる。私が引っかかるのは後半の須田氏の文章に付された小見出しと出だしの内容である。小見出し「論文著者自身存在に否定的」である。冒頭部分を抜粋引用する。

 理研の検証実験の当初の目的は、STAP細胞の有無を調べることだった。だが、総括責任者の相沢氏は記者会見で、「科学者として再現できなかったとしかいえない」と繰り返し、「あるのかないのか」について答えなかった。一方、検証チームの一員として実験を続けてきた論文著者の一人、丹羽仁史理研チームリーダーは「独自に検証実験を続けるか」と問われると、「現時点では考えていない」と明言。著者自身が、その存在に否定的な姿勢を見せた。(2014年12月20日毎日新聞1面掲載)

これを読む限りにおいて、私には、STAP細胞の存在について否定的な言葉を発している人は見当たらないように思えるのである。相沢氏は「あるのかないのか」について答えなかったのであるし、論文著者は「独自に検証実験を続けるか」という問いに「現時点では考えていない」と答えたにすぎない。ここからどうして「その存在に否定的な姿勢を見せた」という言葉を引き出せるのであろうか?独自に検証実験を続けるというのはあらゆる点から考えて難しい、と容易に推測できる。STAP細胞の存在に否定的であるという一点だけで実験を続けないと言っているわけでないことは明らかだろう。しかも「現時点では」という限定もつけられている。それでも「存在に否定的な姿勢を見せた」と書くなら、そう書かせる根拠となった事柄を記述すべきであろう。
この文章に引っかかるもう一つの理由は、使用している単語のいくつかとそのつなげ方にある。一つは「否定的」の「的」である。「〜的」というのは「そのような性質をもっている」ということであって、そのものずばりを言い切っているわけではない。つまり、「否定した」と言い切ってはいないということである。須田氏は「否定的」という言葉によって逃げているのだ。ところが、この文の直前の文は「明言」という言葉で締められている。「否定したのか」と問われれば「私はそのようには書いていません」と応じる余地をもたせながら、何も考えずに読む読者には、「その存在を否定した」と印象づける言葉のつなげ方をしている(、と私には思える)のである。
又、引用はしなかったが後半部分では、「〜はわずかしかできなかった」「その多くの〜」「〜は低く」という曖昧な言葉とともに、「可能性」という言葉を二箇所で用いて、ここでも言い切らない形を取りながら「STAP細胞ES細胞であり、その存在は否定された」と印象づける構成をとっている。
言葉を用いる職業だから、初めからこうした言葉の使い方、つなげ方の効果を承知した上で選択しているだろう。もし無意識に使っているとしたら、意識化しないとその無意識によってジャーナリストとしての身を滅ぼされかねない。

言葉は操作してはいけない。言葉を扱うときは真摯でなくてはいけない。言葉は神に近いものなのだから。

言(ことば)は神であった。(ヨハネによる福音書1:1)
このSTAP問題の根っこには特定法人への指定や研究費の争奪等の問題があったと思われるが、週刊誌だけでなく新聞紙上でもこれだけ取り上げられたことを考えると、STAP騒動には、新聞というメディアが衰退していく中で、大衆受けする記事を書いて売り上げをのばさなくてはならないという新聞業界自体の問題が潜んでいたのではないかと思えるのである。折しも、日本のマスメディアの機能不全が問われ始めている。

この記事を書いていて、絵本『からたちばやしのてんとうむし』を思い浮かべた。

以下にも関連記事を三つほどリンクしておく。


● 毎日新聞記者・須田桃子氏の「捏造の科学者」を読んでもSTAP細胞問題は見えてこない

● 後味の悪いSTAP細胞事件の幕引き:すべて、小保方氏に罪を着せる卑怯な理研よ、よほど大きな圧力が掛かったのか
笹井氏はES細胞研究の権威ですから、小保方氏がES細胞を混入させて、笹井氏にこれがSTAP細胞ですと主張しても、笹井氏は絶対にごまかされないはずです。(抜粋引用) 

● http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34006981.html

● 2015年世界はハック・アタック(ステルス攻撃)の時代に突入する:第二の3.11事件が計画されていると疑え!
地震は人為的に起こすことができるのだろうか?ニュージーランドでのクジラの座礁と日本で起きる巨大地震との関係について書かれている。下の座礁したクジラ(↓)のツイートをした方は別の方。(ミルトス)