風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「なおりたいのか」(ベテスダの池のまわりで)

今日は牧師不在のため長老の説教によって礼拝がまもられた。
以下は、聴いて要約したもの。

 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスエルサレムに上られた。
 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
 その日は安息日であった。               (ヨハネ福音書5章1節から9節)

ベテスダという池のまわりの回廊で多くの病人達が体を横たえて待っていた。〔〕の中に「水が動くのを」とあるところから、この池は間欠泉が流れ込んでくる池として理解されているようだ。「水が動いた時まっ先にはいる者は、いやされた」ーこんなふうに信じられていたのだ。体に不自由をかかえた者達が、このような競争の中に置かれていた。競争の中に置かれているという状況は、今の私達の社会でも変わりはないのではないだろうか。

そういった中に置かれていた一人の人にイエスは声をかけられる。「なおりたいのか」と。するとその人は「水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」と答える。私達もこの人と同じように、どうにもならない現状に失望したまま、そこに安住しているのではないだろうか。

この聖書の後は次のように続いていく。

そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。・・・・・。彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。(ヨハネによる福音書5:10~18)
この人が38年の間病に苦しんでいたことを知っておられたイエスは、この人に声をかければ自らが苦しい立場に追いやられることをも知っておられただろう。しかし、イエスは呼びかけられるのである。「なおりたいのか」と。

命をかけて呼びかけて下さるイエスに向かって、私達は応えているだろうか。長い信仰生活の中で、失望のふちに横たわったままそこに安住してはいないだろうか。

「起きて、床を取りあげ、歩きなさい」と言われるイエスに応えて、この人が床をとりあげて歩いたように、私達も祈りによって応えて、歩き出す者となりたいと思う。