風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

遠い記憶

ある時、歯医者に行くと、「歯が摩耗している、歯ぎしりしてますか?」と聞かれた。歯ぎしりをしている覚えはないが、寝ているときに歯ぎしりをする人もいると聞くので、「寝ている間にしているのかも知れません」と答えた。

今はどういうふうに分類されているかは知らないが、統合失調症の一つの型に、カタトニア(緊張病)というものがあったように思う。
「緊張病性昏迷の人の頭のなかは、ちょっとでも動いたら世界が壊れるかもしれないというような感じでしょう」(中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』)この感覚が私には分からなくない。いつも(数分先の)将来に何が起こっても大丈夫というように覚悟をしながら歯を食いしばって生きて来たように思える。油断をしてちょっとでも気をゆるめると、何かとんでもないことが起こるとでもいうように。それで歯が摩耗しているのだろう。


何かの拍子にふっと思い起こされる遠い記憶がある。母に負ぶわれてだったか、手を引かれてだったか線路を歩いてどこかに行っているのだ。手袋をなくしたのはその時だった。いや、なくした手袋を探しに線路を辿っていたのかも知れない。右と左を紐でつなげた草色の私のミトン。
この記憶が初めて頭に浮かんだのは、テレビで「母さん、ぼくのあの帽子どうしたでしょうねぇ」という映画の台詞が流れていた頃だった。
テレビで母親が子どもを道連れに自殺したというニュースが流れると、母は、「子どもまで道連れにするなんて許せない。死にたければ自分一人で死ねばいい」と憤っていたものだった。他のニュースにはあまり関心を示さなかったのに。

お粗末な心の襞

夫の留守に、「あなたでいいから話を聞いて」と言ってやってきて話を聞いてやった人間から、「あなたには私の心の襞を話したことはない」と言われた。自分のことしか考えていない得手勝手な人間というのは同じようなことを口走るものだ。私の時間を返せ!と言いたい。牧師の妻などというものは因果な商売だ。カウンセラーでもなければ、話を聞いてやっても一銭にもならない。

お粗末な心の襞というものがある。たわいもないことで、傷ついたという思いを後生大事に抱えて被害者面して生きている人間の心の襞だ。
こういった人間には、キリストの十字架がお前のためだったということは一生かかっても分かるまい。
そこら辺の適当な友人にそのお粗末な心の襞を披瀝して、「かわいそうに、つらかったでしょう」と涙を流して貰ってればいい。
死ぬまで、そうしてろ!

私はずっと腹を立てている。何に私は腹を立てるのか。人を大事にしない奴ら、自分を大事にしない奴らに、だ。

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ヤコブの手紙2:8)

ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。(ヨハネ黙示録3:14~16)