風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「見ざる、言わざる、聞かざる」の申年が始まる


● 読書『私たちはどこまで資本主義に従うのか』(ヘンリー・ミンツバーグ)
上にリンクした記事を拝見して、やれることは色々あると思った。
今日は午後に津波誤報が入ったので海の見える高台に車で行き、帰りに関電前を通って閑散としていたのでスタンディング・デモに行くのは止めた。国道は交通量が多かったのだけど、国道まで歩いて足の具合が悪くなって帰って来れなくなると怖い。今年からは自分の行ける日時に自由に関電前に行って立つことにしようと考えている。大勢でデモ行進をする場合、警備のことがあるため警察にお金を払わなくてはいけないのだと聞いていた。けれど一人で立っているだけなら構わないだろうと思う。その方が色んな方にプラカードを目にして貰えるように思う。それに、家でもプラカードを目につくところに置いておくというのも一つの手かも知れない、と思った。
(ミルトス)


見申が聞いて語り、言わ申が見聞きし、聞か申が見て語るというふうに、とりあえず今年は手分けしてやっていったらどうかしら?



「今あなたの救いを見た」(ルカによる福音書2:21~40からの説教抜粋)

説教全文は→http://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2015/12/30/173529

 イエスがお生まれになって8日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、天使が告げたとおりイエスと名づけました。イエスとは「神は救う」という意味だと言われています。特別珍しい名前ではなく、よく使われる名前の一つのようです。
 マリヤは律法に従い、きよめの期間を過ごしました。レビ 12:2〜4にはこう書かれています。イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。また聖なる所にはいってはならない。」汚れについての説明は省略しますが、この規定により信仰熱心な人の「いつまでも休んでいないで、礼拝し、神に感謝を献げなさい」といった言葉から守られ、休むことができるのです。
 その期間が過ぎると、出エジプト 13:12「あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。」との規定に従って子どもを主にささげ、清めの献げ物をします。レビ 12:6〜8にはこう書かれています。「男の子または女の子についての清めの日が満ちるとき、女は燔祭のために一歳の小羊、罪祭のために家ばとのひな、あるいは山ばとを、会見の幕屋の入口の、祭司のもとに、携えてこなければならない。祭司はこれを主の前にささげて、その女のために、あがないをしなければならない。こうして女はその出血の汚れが清まるであろう。これは男の子または女の子を産んだ女のためのおきてである。もしその女が小羊に手の届かないときは、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、一つを燔祭、一つを罪祭とし、祭司はその女のために、あがないをしなければならない。こうして女は清まるであろう。」
 ルカによる福音書「「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と記していますから、ヨセフとマリヤは子羊を献げるだけ豊かではなかったということでしょう。

 ヨセフとマリヤは、イエスを連れてエルサレムへ行き、神殿に向かいました。そこには神が備えられた二人の人、シメオンとアンナが彼らを待っていました。

(中略)

 神は、人生の終わりを喜び満たす救いの証人としてシメオンとアンナを選ばれました。そして二人は自分たちの予想と期待を超えるものを見ました。それは、イスラエルだけでなく万民の前に備えられた救い、異邦人を照す啓示の光、神の民の栄光です。エルサレムの救いを待ち望んでいるすべての人々に、自分たちの思いを超える救いを語り聞かせたのです。

 ルカは、イスラエルだけの救いではなく、すべての人の救いが来たことを伝えるために、この出来事を書いたのです。

ルカによる福音書 2:41〜52 からの説教は
  ↓
http://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2016/01/01/192506