風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

説教「十字架上の王」より(主イエスの予型)

「十字架上の王」

 2026年3月15日  受難節第4主日  

聖書箇所:詩 編        22編 7節~22節

     マルコによる福音書  15章21節~32節

 

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 兵士たちは没薬を混ぜたぶどう酒を主イエスに飲ませようとしましたが、主はお受けになりませんでした。それは苦しみを緩和するためのユダヤの習慣でしたが、ローマでも広まっていました。けれどもそれを飲むのを拒否されたのは、主が死をその苦しみもろとも自覚的に引き受けられたのだとわたしは思います。

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 そもそも詩編第22編というのは不思議な詩編です。2~3節では、

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 とあるので、詩人は絶望の極みにいると思うと、次の4節からは、

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 と一転して、神への信頼の言葉に変わります。

 8~9節はまさに十字架上の主を見て、人々が浴びせかけた言葉です。

 

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 つまり詩人は主なる神を最後まで信頼し続けますという信仰告白で詩を終えているのです。ユダヤ人なら誰でも冒頭の聖句を聞いただけで、これが詩編第22編で主なる神への信頼の言葉で終わることを知っていたに違いありません。主イエスは自らが十字架上で死につつある時も神の業、つまり全人類の罪を贖う業をし続けていることを信じて疑いませんでした。絶望で始めても信頼で終わっている詩編をわたしたちは知らなければなりません。

 主イエスを十字架に付けたのは午前9時でした。十字架の主の頭の上に掲げる罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてありました。これはローマにユダヤ人の王として反旗を翻したという意味でここに書かれたのだと思われますが、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエスこそは本当に「ユダヤ王」ということを告白した言葉でもあります。また、主と一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架に付けました。そこを通りかかった人々は、頭を振りながら主をののしって言いました。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者と一緒になって、代わる代わる主を侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それをみたら、信じてやろう。」一緒に十字架に付けられた者たちも、主をののしりました。」

 実は主イエスは十字架から降りないからこそ神が世に遣わされた「救世主」メシアなのでしたが、誰もがそうとは思いませんでした。「苦難の僕」を描いたイザヤ書第53章5節には、

 

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 この「苦難の僕」は彼自身に罪がなかったにもかかわらず、わたしたちを含む全人類の罪を自ら負われました。そして、犯罪者と共に十字架に付けられたことにより、罪人の一人に数えられたのです。この「苦難の僕」こそが、主イエスの予型でした。

 

 

 

 

 

最後の沈丁花