風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

グリム童話「いばらの中のユダヤ人」


航跡が消えずにのこる夢を見た びるけなう、びるけなう 遥かなり  喜多昭夫

ビルケナウは遙かに遠いのだ。にもかかわらず、夢に見るのである。
アウシュヴィッツの出来事は、このようにして、私たち人類の中に残り続けるものなのかも知れない。


グリム童話の中に「いばらの中のユダヤ人」という話がある。

三年間働いた給料を旅の途上で出会った小人にやってしまった男は、代わりに三つのものを手にする。「狙ったものに必ず命中する吹き矢」、「男が弾くのを聞いた者は誰でも踊り出してしまうヴァイオリン」、「男が人になにか頼んだら誰も断ることができなくなるという力」。この三つを持って、男は途中、ユダヤ人に出会う。

以下に、吉原高志・吉原素子=訳『初版グリム童話集』(白水社から「いばらの中のユダヤ人」の結末部分を引用する。

男はユダヤ人にむかって叫びました、「悪党、その金をどこから取ってきたのか、白状しろ。でないと、弾くのをやめてやらないぞ」「盗んできました、盗んできました。それにあなたはいかさまでお金を取ったのではありません」とユダヤ人が叫んだので、全員に聞こえました。そこでわれらが下男はヴァイオリンを弾くのをやめました。そして男にかわって、この悪党が絞首台につるされました。
脚註には、「第三版(一八三七年)以降は、ユダヤ人が金を盗んだ相手がキリスト教徒であるという記述はない」と記されている。


これを子ども達に語り聞かせるべきだとは到底思わないのだが、資料として遺しておくべきだとは思っている。

グリム童話が一人の人間が作った創作でなく、グリム兄弟が聞き取って蒐集したものだというところに価値があるだろう。ここに、大衆の深層が現れているということである。これはドイツに限ったものではない。キリスト教ユダヤ人の問題というような狭い範囲に収まるものでもない。

そもそも、人間というものについて余すところなく記した聖書に次のように語られている。

イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。(出エジプト記1:9〜11)

私たちは最終的に自分達が、自分が、大事なのだ。

これは、私たち日本人には関係ない等と言えるような事柄ではない。私たちの中に巣喰う心性であり、かつても、そして今も、あらゆる国で起こっている事柄なのだ。
否、もしかしたら、差別と被差別が複雑に絡みあった日本は、他国よりもっと巧妙な構造の中に置かれていると言えるかも知れない。一方の差別を見えなくするために他方を際立たせるというような・・。