風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

お別れに、姿を見せに来てくれたのか?

朝、カーテンを開けると・・

フェンスでくりくりの目が写ってないが、この子達は、ミャー達ではないか?

真っ黒でなくて、鼻先から胸にかけて白くなっているが、白色の遺伝子を持っていると大きくなるにつれて模様や毛色が変わるらしいから・・?

しかし、1週間ほどでこんなに大きくなるだろうか?しかも塀の上にいる。

でも、どう見ても子猫だよなぁ?

 

この2匹は兄弟猫だと思う。

この奥側にいるのが、母猫なんじゃないかと思うのだが・・?似ているし。

しかし、子猫の鳴き声を聞いて走り出てきていたのは、手前の猫だったように思える。

 

 

しかし昨日の朝、姿を見せたきり、また見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伝えられたもの、聴いたこと、受けとったことを語る

  「おびただしい証人の群れに囲まれて」

 

2022年11月20日(日)聖霊降臨日後第24主日【逝去者記念礼拝】
聖書箇所:ヘブライ人への手紙 11章39節〜12章2節

 

 わたしたちはきょう、先に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝を守っています。

 わたしたちの信仰は伝えられたものです。神と共に歩み、キリストに従って生きた信仰の先輩たちから伝承されたものです。

 

(略)

 

 キリストを信じた者たちは、目に見える世界よりもはるかに大きな世界に生き、今という時間からも解き放たれて生きたのです。

 

(略)

 

 ただし、彼らは救いの約束の完成をこの世において受けることはありませんでした。それぞれに与えられた生涯を全うし、地上の生涯を終えました。しかし、彼らは「目に見えない方を見ているようにして」(11:27)神と共にこの地上の歩みを全うしたのです。

 神は、すべての信仰者のために、ご自身のひとり子イエス キリストを世に遣わすという「更によいものを備えて」くださいました。1970年に発行されたNew English Bible(NEB、新英語聖書)では、「わたしたちを心にかけ、神はさらに良い計画をあらかじめ立てておられたので、先に召された信仰の先輩たちは、これから召されていくわたしたちと連れ立って、初めて完成に至る」と述べています。

 

(略)

 

 わたしたちは、いろいろなものを握りしめて、抱え込んで、生きています。しかし、どれ1つとして死を越えて、持っていくことはできません。この世に生まれるとき、何も持たないで、ただ命のみが、与えられました。そして、この世を去る時、何も持たずに、与えられた命を、主にお返しして、主の御手に受け止めていただくのです。

 この世において、良いもの、価値あるものとされる名誉や誇りでさえ、イエスに向かって走るのを妨げる重荷や絡みつく罪にしかなりません。

 信仰者が証しするのは、キリストに救われ、支えられて、キリストと共に生きたということです。立派な人生を送りましたということでは決してありません。

 召されたすべての信仰者が死を迎えるとき、何が希望であり、支えとなるのでしょうか。

 それは、イエス キリストが、わたしの救い主となってくださったということ。

 イエス キリストが、ご自分の命さえも、惜しまず、わたしの救い主となってくださったということ。

 イエス キリストがご自分の命を献げて、わたしの救い主となって、わたしを罪と死から救ってくださったということです。

 

(略)

 

 このイエス キリストに救いがあります。すべての信仰者は、この方によって救われました。そして、この方は、神が造られたすべてのものの救いのために、わたしたちのためばかりではなく、全世界の救いのためにその命を献げてくださいました(1ヨハネ 2:2)。

 

 ですから、わたしたちは、先に召された、愛する者たちを、イエス キリストにあって、確かな救いの希望の内に、思い起こすことができるのです。

 私たちに命を与えてくださった神が、私たちの死を良しとしないで、ひとり子の命を差し出してまで、お救いくださったのです。この神によって、天へと先に召されたのです。先に召された、愛する一人ひとりが、今、神の救いの内にあることを、イエス キリストが保証し、確かなものとしてくださっています。

 そして、わたしたちも、先に召され、救いに入れられた者たちの後に続くのです。信仰の創始者また完成者であるイエスをしっかりと見つめて生きるのです。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、キリストの愛に包まれているこの命、この人生を、キリストと共に生きるのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/11/20/212637

 

この説教の冒頭では、「わたしたちの信仰は伝えられたものです」と語られている。

 

説教も、「伝えられたもの」、「聴いてきたこと」、「受け止めた事柄」を語るものではないか、と思う。

だから同じようなことを語っているということが起こってくる。

 

しかしまた、伝えられたことが歪められて行くという場合がある。

人間の考えで、説教が歪められて語られる場合があると思うのである。

それは、伝えられたものというより、人間の頭の中で都合良く書き換えられたものだということだ。人間礼讃であったり、律法遵守の勧めであったり・・。

 

福音ではなく、歪められたものを聞きつづけるなら、その歪められたものを語ることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逝去者記念の花

今日は、逝去者記念の礼拝だった。

このテーブルに、皆さん、写真を持ってきて飾られる。

前の週にどなたかが持ってこられた菊と庭のパンジーとミルトスを・・。

いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。 これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない。(イザヤ書55:13)

 

だけど、ミルトスの木は少し弱ってる。手入れをしてやりたいけど、どうすればいいかなぁ?

 

 

  「おびただしい証人の群れに囲まれて」

 

2022年11月20日(日)聖霊降臨日後第24主日【逝去者記念礼拝】

聖書箇所:ヘブライ人への手紙 11章39節〜12章2節

 

 わたしたちはきょう、先に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝を守っています。

 わたしたちの信仰は伝えられたものです。神と共に歩み、キリストに従って生きた信仰の先輩たちから伝承されたものです。

 ヘブライ人への手紙 11章1節では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だと言っています。望んでいる事柄とは「救いの完成」であり、「神の国の到来」です。それは、まだ誰も見たことのないものです。しかし、それを、イエス キリストの十字架と復活、その生涯において確認するのです。キリストと出会い、神を知ったがゆえに、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認するのです。目に見えないものを信仰の目で見て、未来の事柄を信仰によって、今のものとして経験するのです。

 キリストを信じた者たちは、目に見える世界よりもはるかに大きな世界に生き、今という時間からも解き放たれて生きたのです。

 11章39節には信仰を持って生きた人たちはすべて「その信仰のゆえに神に認められた」とあります。口語訳聖書では「信仰によってあかしされた」となっています。この「あかしされた」というのは、本来「名前が記録される」という意味です。つまり、信仰の先輩たちは、信仰によって、その名が記録された、ということを意味しています。神の民の名前が、記されている命の書に、その名が刻まれたことを示しています。神がその名を、救いの中に刻み込んでくださるのです。

 ただし、彼らは救いの約束の完成をこの世において受けることはありませんでした。それぞれに与えられた生涯を全うし、地上の生涯を終えました。しかし、彼らは「目に見えない方を見ているようにして」(11:27)神と共にこの地上の歩みを全うしたのです。

 神は、すべての信仰者のために、ご自身のひとり子イエス キリストを世に遣わすという「更によいものを備えて」くださいました。1970年に発行されたNew English Bible(NEB、新英語聖書)では、「わたしたちを心にかけ、神はさらに良い計画をあらかじめ立てておられたので、先に召された信仰の先輩たちは、これから召されていくわたしたちと連れ立って、初めて完成に至る」と述べています。

 神のひとり子イエス キリストは、自分自身を神に捧げる大祭司として、この世に来られました。イエス キリストは、ご自分の命をもって、わたしたち一人ひとりの救いを獲得してくださいました。すべての信仰者は、キリストへとつながり、キリストによって救われ、完成へと至るのです。キリストこそ、わたしたちの信仰の始まりであり、信仰の目標です。

 信仰の創始者であり、完成者、それが、イエス キリストなのです。

 神はこのように、ひとり子イエス キリストにおいて、すべての信仰者を救いへと導かれました。神はキリストにおいて、わたしたちに対する愛、救いの完成、永遠の命、そして、神の国を明らかにされました。

 そして今、わたしたちは、キリストの救いに入れられ、救いを証しした多くの人を思い起こすことができます。まさに、12章1節で語るように、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれているの」です。

 証人、証し人という言葉は、当時は、殉教者を指す言葉でした。そこには、キリストと共に生きたという思いが込められています。証し人たちは、復活の主を見上げて、苦しみも、そして死も含めて、与えられた生涯を全うしました。イエス キリストにこそ、救いがあり、希望があり、命があることを、自ら証しをして、生涯を全うしたのです。

 聖書は、わたしたちにこう勧めます。12章の1節と2節「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪とをかなぐり捨てて、自分に定められている競走を、忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」。

 聖書は、わたしたちの人生を忍耐強く走り抜かねばならない競争に例えています。そして、走り抜くための大切な点を指摘しています。それは、イエス キリストという目標がはっきりしたならば、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、目標を目指して走るのです。

 わたしたちは、いろいろなものを握りしめて、抱え込んで、生きています。しかし、どれ1つとして死を越えて、持っていくことはできません。この世に生まれるとき、何も持たないで、ただ命のみが、与えられました。そして、この世を去る時、何も持たずに、与えられた命を、主にお返しして、主の御手に受け止めていただくのです。

 この世において、良いもの、価値あるものとされる名誉や誇りでさえ、イエスに向かって走るのを妨げる重荷や絡みつく罪にしかなりません。

 信仰者が証しするのは、キリストに救われ、支えられて、キリストと共に生きたということです。立派な人生を送りましたということでは決してありません。召されたすべての信仰者が死を迎えるとき、何が希望であり、支えとなるのでしょうか。それは、イエス キリストが、わたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストが、ご自分の命さえも、惜しまず、わたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストがご自分の命を献げて、わたしの救い主となって、わたしを罪と死から救ってくださったということです。

 そのために、イエス キリストご自身、自らの前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになられたのです。神のままで、栄光に包まれることをお選びにならないで、わたしたちの救いのために、人となって世に来られました。わたしたちが負うべき裁きを、ご自分の命によって、負ってくださいました。そして、死を打ち破って、復活し、わたしたちが神の御許へと帰る道を開いてくださったのです。

 このイエス キリストに救いがあります。すべての信仰者は、この方によって救われました。そして、この方は、神が造られたすべてのものの救いのために、わたしたちのためばかりではなく、全世界の救いのためにその命を献げてくださいました(1ヨハネ 2:2)。

 

 ですから、わたしたちは、先に召された、愛する者たちを、イエス キリストにあって、確かな救いの希望の内に、思い起こすことができるのです。

 私たちに命を与えてくださった神が、私たちの死を良しとしないで、ひとり子の命を差し出してまで、お救いくださったのです。この神によって、天へと先に召されたのです。先に召された、愛する一人ひとりが、今、神の救いの内にあることを、イエス キリストが保証し、確かなものとしてくださっています。

 そして、わたしたちも、先に召され、救いに入れられた者たちの後に続くのです。信仰の創始者また完成者であるイエスをしっかりと見つめて生きるのです。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、キリストの愛に包まれているこの命、この人生を、キリストと共に生きるのです。

 

  祈ります。

 

  

玄関には・・。

 

 

 

 

 

 

 

蕾だったのが開いて嬉しい、枯れても美しい。

 

蕾だったのが開いて、嬉しい。

 

 

花がすぼんでしまっても飾る。けれど、しおれてしまったものは飾れない。

腐ってしまっても、飾れない。

けれど、

枯れていくのは美しい。

 

 

 

 

 

 

ミャーさん達は・・。(追記した💢)

日曜日、牧師館の近くで猫が鳴いているので庭の内側にいるんじゃないかと言うので見てみたが、いなかった。

 

月曜日、リビングのすぐ外で鳴いているように思えるので、外に出てみるがいない。

鳴き声の方にそぉっと近づいて、ふと溝の中を見ると、黒い子猫がいる。側溝にはまり込んで出られなくなったのだろうか?と思い、いったん家に入って、もう一度見に行くと、クリクリの目をしてこちらを見上げている。変だなぁと思って見ていると、クリクリの目の方が動いたら、もう一匹小さいのが姿を現した。こちらの方が弱っているようだ。この子は、その後、雨樋の中に潜り込んだ。

夜、何時頃だったろうか?二階から外を見ると、フェンスの向こうの塀の上を走って猫が一匹、駐車場の入口に飛び降りた。飛び降りた所には黒い子猫の影のようなものが見えた。そして、猫達は下から塀の隙間へと消えていった。

 

火曜日、朝8時頃、鳴き声はしない。側溝を見て回るが、姿も見えない。

10時過ぎだっただろうか?鳴き声がし始まったので、外に出ると、溝の中を子猫がたったか走ってくる。小さい方が雨樋の中に入ったので、元気な方はさらに走って奥の方まで行き、そこの行き止まりで丸まって震えていた。その前後でカラスの鳴き声がしていたのだった。しかしカラスの声を聞いて震えるというのは何なんだろう。遺伝子に組み込まれているのだろうか?

夕方、猫のことで見えた近所の人と駐輪場の前で立ち話していると、ミャー、ミャーという子猫の鳴き声が高まって、こちらに向かってくる。すると、その声を聞いてか、猫が一匹フェンスの向こうの塀の上を走って出て来た。しかし、私たち人間の気配に気づいて、どちらも引き返していった。

だらだらくっちゃべる井戸端会議ほどくだらないものはない💢

お蔭で子猫たちは帰りそびれただろ💢

 

水曜日、猫の鳴き声は全くしない。側溝の中を見て回ったが、居そうにない。

昨夜遅く鳴き声がしていたから、建物の隙間の方へ戻っていったのかもしれない。もしかしたら、延々と立ち話をしている人間を警戒して、ここも危険だと察知して居場所をどこかに移したのかもしれない、と思う。建物と建物の間の塀の上にいた親猫らしき猫も姿を消している。

 

親猫はカラスから守るために子猫たちをうちの側溝に隠したのではないだろうか?

昼間溝の中に隠れて、カラスが寝静まった頃、「ミャー、ミャー」と鳴いて親猫を呼んでお迎えに来てもらっていたのだ。「ミャー、ミャー、僕たちもうすぐお家?に帰るよ。お迎えに来てね」って(うちの溝は保育所か?)。

なんて賢いのだろうかと思う。人間なんかよりよほど猫の方が賢いだろ!

しかし、人間が罪に堕ちたせいで、この子達も巻き添え食っちゃって。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。(ローマの信徒への手紙5:12)

「生き物にも及んだ」だろ💢(聖書にも怒る💢)

 

しかしこの間、どうしたものかと散々頭を悩ませた。

お腹を空かせて死ぬんじゃないか?ミルクを溝に垂らしてみようか?しかし変なものをやってお腹をこわしても良くないか?子猫用のキャットフードはどうだろう?しかし、下手に餌をやって狩りが出来なくなっては逆に生きていけなくなるかもしれない?雨樋の中では雨が降って濡れて死ぬのでは?雨が降らなければ良いが、等々。

 

そこで、猫のことに詳しい方に電話して相談することにした。

それで、考えをはっきりさせることが出来た。

やはりこれまで通り、私は餌は遣らない、庭に来るのはそのままに来させよう、そういうスタンスを貫くことにした。私の庭ではないのだが・・。

 

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1:28 口語訳)

罪に堕ちた私たちには生き物を治めること等できはしない。あんな賢い生き物たちを治めるだなんて差し出がましいこと出来るはずがないだろう。それをしっかり自覚して、弁えて行動したいものだ、と思う。

 

ミャーがいなくなって淋しいなぁ〜。

金曜日の夜、遠くで鳴いているミャーのような声が聞こえていたけど・・?

いつか大きくなって、うちの庭に顔を見せに来てくれたら嬉しいだろうなぁ〜。

でも、雌だったら捕獲されて避妊手術されちゃうかな?

手術代もたないとか、これ以上出せないとか言ってたから、大丈夫か???

 

庭に・・。

猫はミステリアスな存在だ。彼らの頭の中には、我々が気づくこともできないものが、去来している。ウォルター・スコット

 

 

建物と建物の間にいる親猫達?

何となくビオラに似ていると思うのは、私の気のせいか?

 

 

myrtus77.hatenablog.com

わが魂は絶えいるばかりに主の大を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。(詩篇84:2)