風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

市に嘆く の検索結果:

葛原妙子51に手を入れたもの

…歌と見比べると、明らかに違っていることが解ると思う。晩年には、神に向かって詠っているのである。妙子の生前最後となった第八歌集『鷹の井戸』では、素足のキリストは次のように詠われている。 市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に祈りたまへり 『鷹の井戸』 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ福音書2:16) 『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてある(マルコ福音書11:17)

葛原妙子36

…ら与えられた恵み」としてもっとも大きいのはイエスキリスト御自身なのではないか、と思う。晩年の葛原妙子はこのイエスキリストにますます集中して目を凝らしているように思われる。『をがたま』の中に詠われたイエスの歌には全て尊敬語が用いられている。そして、この傾向は『鷹の井戸』からすでに始まっている。市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に禱りたまへり『鷹の井戸』 この歌については「葛原妙子4」で、 ↓ http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20111109/p2

葛原妙子3

…ないのだ」と。けれど・・。わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。(詩篇22:1〜) この問題は、それほど容易く片付けられる事柄ではないだろう。続けて問うていきたいと思う。 妙子には素足のキリストを詠った歌が他にもある。 市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に禱りたまへり 「鷹の井戸」 この歌がおさめられている歌集「鷹の井戸」は、先の歌がおさめられている「飛行」より後に出されたものだが・・。

葛原妙子4

市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に禱りたまへり 「鷹の井戸」この短歌を一読すれば、ある人はすぐさま、「イエスの宮清め」といわれる聖書の記事を思い浮かべるだろう。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。・・」(マルコ11:15…