風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ドストエフスキー『罪と罰』 の検索結果:

ムンクの『接吻』から - ドストエフスキー『罪と罰』

『叫び』で有名なムンクに、「吸血鬼」や「接吻」というタイトルの絵がある。 『接吻』と名付けられている絵は、接吻をしている男女の境界がほとんど溶解しているように見える。 そして柩のなかには、花に埋まるようにして、絹レースの純白の服を身につけ、大理石を彫ったような両手をしっかりと胸に組んで、ひとりの少女が横たわっていた。しかし、少女の乱れた髪、明るいブロンドの髪は、ぐっしょりと水にぬれていた。ばらの花冠が少女の頭を飾っていた。すでに硬直したいかつい横顔も、やはり大理石で彫りあげら…

自殺者の葬儀について - ドストエフスキー『罪と罰』から

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25:40) 私は「スヴィドリガイロフとユダ」で、「スヴィドリガイロフの言葉は、この聖書の言葉を逆転させた言葉だと言える。『キリストにしたことは、最も小さい者の一人にしたことに等しい』、と」と書いた。 しかし、現実の世界で私たちがキリストに良きことをなすのは不可能に等しい。 「キリストに」と言う時、「献身する」、「修道女になる」ということを思い浮かべる人もいるかも知れない…

スヴィドリガイロフとユダ - ドストエフスキー『罪と罰』15

ところで、ここに五分利付公債で三千ルーブリあります。この金はあなたが、ご自分の分として納めてください。(略)この金はあなたにとって必要なはずです。なぜって、ソフィヤ・セミョーノヴナ、これまでのような暮らしをつづけるのは、見苦しいことですし、そんな必要ももう全然ないのですから」 (略) 「あなたに、あなたに差しあげるんですよ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、だから、どうぞ何も言わずに。それに私はひまもないので。必要になるときが来ますよ。(岩波文庫『罪と罰 下』p305~306) この…

スヴィドリガイロフ - ドストエフスキー『罪と罰』14

で、私のいまの希望は、あなたのご紹介でアヴドーチヤさんにお目にかかって、なんならあなたもご同席のうえで、ルージン氏と結婚されても一文の得にもならない、いや、それどころか、むしろ損になることが見えすいているとご説明したい、これが第一なんです。つぎには、先ごろのいろいろな無礼をお許しいただいたうえで、一万ルーブリのお金をアヴドーチヤさんに進呈したい、そのことでルージン氏と手を切られる埋めあわせをしていただきたいというわけです。もっとも、ルージン氏と手を切られること自体は、アヴドー…

「あなたが汚した大地に接吻なさい」 − ドストエフスキー『罪と罰』13

「お立ちなさい!(彼女は彼の肩をつかんだ。彼は、ほとんど呆気にとられて彼女を見つめながら、体を起こした)いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです、おじぎをして、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから四方を向いて、全世界におじぎをなさい。そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました!」と言うんです。そうしたら神さまが、あなたにまた生命を授けてくださる。行くわね? 行くわね?」(岩波文庫『罪と罰 下』p135) しかし、このすぐ後にラスコーリニコフは、「懲役のことを…

カチェリーナとラスコーリニコフ 2 - ドストエフスキー『罪と罰』12

あのひとが捜しているのは正義なんです・・・・・きよらかな人だから、何事にも正義があるはずだと心から信じていて、それを要求するんです(岩波文庫『罪と罰 中』p265) これはカチェリーナについてのソーニャの洞察であるが、カチェリーナとラスコーリニコフに共通するのは、理不尽と思える世界の中で正義を捜し求めているという点だろう。 ただ、・・ もともとカチェリーナの性格には、人を見れば即座に、だれかれの見さかいなく、むやみと美化し、理想化してしまうくせがあった。そして、ときによっては…

カチェリーナとラスコーリニコフ 1 − ドストエフスキー『罪と罰』11

ラスコーリニコフとカチェリーナは似通った人間だと私には思える。 どちらも自分自身が窮乏しているというのは言うまでもないことだが、どちらも自分自身のことだけを考えているというような人間ではない。むしろ子どものことや、母や妹、ラスコーリニコフに到っては行き会ったマルメラードフの家族のことまで考えて、なけなしのお金をこっそり置いてくる程である。 しかし、・・ 「ソーニャ、ソーニャ!」彼女が自分の前にいるのがふしぎでならぬように、カチェリーナはやさしく、おだやかに言った。「ソーニャ、…

ソーニャ 3 - ドストエフスキー『罪と罰』

…たことにめでて』― ドストエフスキー『罪と罰』3」で、 ここで、マルメラードフの言う「御一人なるその方」、「その御一人」を父なる神とするとどうなるだろうか?キリストが贖いの献げ物であるなら、罪を赦すのは父なる神である。とすると、「わたしはすでに一度おまえを赦した・・・・・一度赦した・・・・・」と語っているのは、父なる神だと言うことが出来るのではないだろうか?マルメラードフの願望、あるいは確信としてソーニャに語られるこの言葉は、父なる神からキリストに向けられたものとして描いてい…

グリム童話『手なし娘』とソーニャ - ドストエフスキー『罪と罰』

グリム童話に『手なし娘』という話がある。『手なし娘』のような話は日本の民話にもあるが、色々本を家に置いてきているので確認することが出来ない。 『手なし娘』というのは、相手が悪魔と気づかぬまま「金持ちにしてやろう」という口車に乗って父親が知らず知らずのうちに娘を引き換えにしてしまうという話である。 両手を失った娘は家から出て行くが、王子に見そめられて妃となる。けれどその後も苦難は続き、子どもと両腕を背中にしばりつけられて城を出て行く。深い森の中で娘は、神と思しき老人に出会い、手…

カチェリーナ - ドストエフスキー『罪と罰』10

マルメラードフは臨終前の苦しみに襲われていた。彼は、また自分の上にかがみ込んだカチェリーナから目を離そうとしなかった。彼はしきりと彼女に何か言いたそうにしていた。やっとのことで舌を動かし、不明瞭な言葉を押しだしながら、何か言いかけもした。しかし、彼が自分に赦しを乞おうとしていることをすぐに察したカチェリーナは、すぐさま命令するような口調で彼をどなりつけた。 「黙ってなさいよ! 言わなくていいの!・・・・・・わかってますよ、あなたの言いたいことは!・・・・・」病人は口をつぐんだ…

ソーニャ 2 − ドストエフスキー『罪と罰』

「ぶったですって! 何をおっしゃるの! ああ、ぶったなんて! たとえぶったとしても、それがなんですの! だからどうだと言うんです! あなたは何も、何もご存じないんだわ・・・・・あれはふしあわせな人なんです、ええ、ほんとにふしあわせな! おまけに病気で・・・・・あのひとが捜しているのは正義なんです・・・・・きよらかな人だから、何事にも正義があるはずだと心から信じていて、それを要求するんです・・・・・どんなに苦しい目にあったって、まちがったことのできる人じゃありません。あのひとは…

ソーニャ 1 − ドストエフスキー『罪と罰』

だが、ふいに彼は娘に気づいた。さげすまれ、ふみにじられ、けばけばしくめかしたてられ、そんな自分を恥じて、臨終の父に別れを告げる番がまわってくるのをただつつましく待っている娘。底知れない苦悩がありありと彼の顔に現れた。 「ソーニャ! 娘! 赦してくれ!」彼はそう叫んで、彼女のほうに片手を差しのべようとした。(岩波文庫『罪と罰 上』) 「さげすまれ、ふみにじられ、けばけばしくめかしたてられ、・・・」 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集…

ボンヘッファーも『罪と罰』を読んだのだろうか・・−ドストエフスキー『罪と罰』番外

ドゥーネチカはつづけた。「ふたつの悪のうち、より小さな悪を選びたいの。 (岩波文庫『罪と罰 中』p86) ボンヘッファーも『罪と罰』を読んだのだろうか・・? myrtus77.hatenablog.com

マルメラードフの死 - ドストエフスキー『罪と罰』9

通りの中ほどに、葦毛の駿馬を二頭つないだ粋な作りの旦那用の四輪馬車が止まっていた。だが乗り手はなく、馭者も馭者台から降りて、わきに立っていた。馬はくつわを押さえられていた。まわりは黒山のような人だかりで、いちばん前のほうに警官の姿が見えた。そのひとりが角燈を手にかがみ込んで、歩道の上の車のすぐ横を照らしていた。人びとは話したり、わめいたり、溜息をついたりしていた。馭者はなんとも合点のいかぬ様子で、ときたまこうくりかえしていた。 「なんて災難だろう! ああ、とんだこった!」 ラ…

エピローグから、しょうもない話 − ドストエフスキー『罪と罰』番外

『罪と罰』のエピローグにこんなことが書いてあった。 彼はもう長いこと病床にあった。だが、彼をくじいたのは、監獄生活の醜悪さでも、労役でも、食物でも、剃られた頭でも、ぼろのような服でもなかった。おお! こうした苦痛や責苦が彼にとって何だったろう! それどころか、彼は労役をよろこんだほどだった。労役で肉体的に疲れきると、すくなくとも何時間かの安らかな眠りをかちうることができた。また、あの食事、ごきぶりが浮いた実のないキャベツ汁が、彼にとって何だったろう? 以前学生時代には、それに…

エピローグから、ラスコーリニコフの見た夢 - ドストエフスキー『罪と罰』8

ラスコーリニコフの罪とは何だったろうか?もちろん二人の老婆を殺したという刑法にふれる犯罪はあったろう。しかしドストエフスキーが「罪」として捉えているのはそれでないのは明らかだ。 それはラスコーリニコフの見た夢に現れている。 以下にラスコーリニコフの見た夢の部分を引用する。 先ずは、岩波文庫『罪と罰 上』p117から。これは、まだラスコーリニコフが犯罪を犯す前の夢である。 ラスコーリニコフが見たのは恐ろしい夢だった。幼年時代、まだ田舎の町にいたころの夢である。彼は七つほどで、あ…

エピローグから、ソーニャについて − ドストエフスキー『罪と罰』7

彼は苦しみながら、しきりとこの問いを自分に発したが、しかし、川のほとりに立ったあのときすでに、彼がおそらくは自分の内部に、自分の信念の中に、深刻な虚偽を予感したはずだということは理解できなかった。彼はまた、この予感こそが、彼の生涯における未来の転機、彼の未来の復活、未来の新しい人生観の先ぶれとなりうるものであることを理解していなかった。 彼はこの点ではむしろ、自分が断ちきることもできず、またふみ越える力もない(弱さと自分のくだらなさのために)本能の鈍い重みを認めただけだった。…

突然、エピローグへ − ドストエフスキー『罪と罰』6(訂正あり) 

彼女はいつもおずおずと手を差しのべた。ときには、彼にふり払われはすまいかと恐れるように、まったく手を出さないこともあった。彼は、いつもしぶしぶとその手を取り、いつも怒ったように彼女を迎え、ときには彼女が訪ねてきている間、かたくなに口をつぐんでいることもあった。彼女がすっかり彼におびえ、深い悲しみに沈んで帰って行くこともめずらしくなかった。だが、いまは、ふたりの手は離れなかった。彼はちらりとすばやく彼女を見やると、ひとことも言わず、目を伏せて地面を見つめた。彼らはふたりだけで、…

汚らしいものばかりが・・ ― ドストエフスキー『罪と罰』5  

いいかい、ドゥーネチカ、ソーネチカの運命はね、ルージン氏といっしょになるきみの運命とくらべて、ひとつもけがらわしくはないんだぜ。(略)ルージン式の小ぎれいが、ソーネチカの小ぎれいと同じことで、いや、ことによると、もっとみにくい、不潔な、いやしいものかもしれないってことが、きみにはわかるのかい?だって、ドゥーネチカ、きみの場合は、なんと言ったって、いくらかは安楽な暮らしをしたい目当てがあるが、ソーニャの場合は、それこそ餓死するかしないかの瀬戸際なんだからね。(『罪と罰』) 母親…

「おれはな・・悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ」― ドストエフスキー『罪と罰』4

「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、す…

「おまえが多くを愛したことにめでて」― ドストエフスキー『罪と罰』3

おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ。おれたちを哀れんでくださるのは、万人に哀れみをたれ、世の万人を理解してくださったあの方だけだ、御一人なるその方こそが、裁き人なんだ。その御一人が裁きの日にいらしって、おたずねになる。「意地のわるい肺病やみの継母のために、年端も行かぬ他人の子らのために、おのれを売った娘はどこかな? 地上のおのれの父親を、ならず者の酔っぱらいの父親を、そのけだもののような所行もおそれず、…

どこに愛があるというのか!― ドストエフスキー『罪と罰』2

マルメラードフのどこが悲しいと思うのか? 例えば、こういうところだ。 私があれをもらったときは、後家さんで、小さいのばかり、三人も抱えておりましたっけ。まえの主人は歩兵将校で、好きあって親の家から駈落までしたもんです。あれのほうが首ったけでしてね。ところがその主人が、カルタに手を出して、裁判沙汰になって、それなり死んじまった。最後のころは、ずいぶん家内をぶちもしたようで、あれのほうでもいい顔ばかりはしていなかったらしい、なに、これについちゃ、私もたしかな証拠をにぎっておるんで…

どこに愛があるというのか!— ドストエフスキー『罪と罰』1

台風が最接近した月曜の夕方、家に着いた。 家に帰ったら持って来ようと思っていた『罪と罰』を少し読んで寝ようとしたら、雨風が凄まじくて眠れないので、また灯りを点けて続きを読む。台風が通り過ぎて静かになったのに、今度は悲しすぎて眠れなくなった。 『カラマーゾフの兄弟』は心情に共鳴しながら一気に読んだが、描かれている世界は私の住む世界とかけ離れていた。 しかし『罪と罰』は全く共鳴できないにもかかわらず、子どもの頃に見ていた世界そのものだったのだ。もちろん私は身売りもしていなければ、…

インマヌエルの神

日曜学校の教師として奉仕をすることになった時、最初の一年間だったか、各分級の見学をすることになった。私自身はその後1,2年の分級を持つことになったのだが、Mさんが担当しておられた幼児の分級での見学を今でも覚えている。 Mさんはいつも「こどもさんびか」55番を歌い、お祈りをして、分級を閉じておられたのだった。「てをあわせ めをとじて みんなしずかにいたしましょう かみさま ぼくのわたしのおいのりを きいてください ささげます ♫ 」その後も私自身は幼児のクラスを担当することはな…