風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「キリストの苦しみのなお足りないところを」ー ドストエフスキー『罪と罰』

今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。(コロサイ人への手紙1:24 口語訳)

「キリストの苦しみのなお足りないところを」というこの御言葉の意味が分からなかった。

エス・キリストは十字架上で完全な贖いを成し遂げてくださったのではなかったか?どうしてこれ以上「わたしの肉体をもって補う」必要があるのだろうか?と。

 

しかしこの世を見ていると、あらゆる苦難になお満ちあふれている。 

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ドストエフスキーは言う。

キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう(ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫)訳者、江川卓「あとがき」より)

 

おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ。おれたちを哀れんでくださるのは、万人に哀れみをたれ、世の万人を理解してくださったあの方だけだ、御一人なるその方こそが、裁き人なんだ。その御一人が裁きの日にいらしって、おたずねになる。「意地のわるい肺病やみの継母のために、年端も行かぬ他人の子らのために、おのれを売った娘はどこかな? 地上のおのれの父親を、ならず者の酔っぱらいの父親を、そのけだもののような所行もおそれず、哀れんでやった娘はどこかな?」そして、こうおっしゃる。「来るがよい! わたしはすでに一度おまえを赦した(ドストエフスキー罪と罰 上』岩波文庫

 

「ソーニャを・・ー ドストエフスキー『罪と罰』」で私は、「ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描いていると考えて」きた。「しかし、ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描きながら、一方でキリストではない私たちと等しい人間としても描いているのではないかと思い始めていた」と書いた。

そして、さらに、「さて、このように考えると、「受イエス・キリスト」という出来事は私たちにも起こりうるということである」とも書いたのだった。

 

で、聞いておると、私のソーニャが(あれは口答えをしない子で、声も実にやさしいんですが・・・・・ブロンド髪で、いつも青白い、やせこけた顔をしておりますよ)、言っておるんですな。「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことしなくちゃいけないの?」実は、ダリヤ・フランツェヴナという、警察にも何度もご厄介になっている性質の悪い女が、家主のかみさんを通じて、三度ほども口をかけてきておったんです。「それがどうしたのさ」とカチェリーナがせせら笑って答えております。「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」けれど責めないでくださいよ、あなた、責めないで! あれは落ちついた頭で言ったことじゃない。気持がたかぶって、病気がひどいところへ、腹のへった子どもたちが泣きたてるなかで言ったことで、それも言葉どおりの意味というより、あてつけに言ったことなんです・・・・・(略)ですが、そのとき私は見ましたよ、学生さん、ちゃんとこの目で見たんです。しばらくすると、カチェリーナが、やはり一言もものを言わずに、ソーニャの寝台のそばへ行って、一晩じゅう娘の足元にひざまずきながら、娘の足に接吻しておるんです、そのまま立ちあがろうともしない、そのうちふたり抱きあって、そのまま眠ってしまいましたよ、ふたりして・・・・・ふたりしてです・・・・・はい(ドストエフスキー罪と罰 上』岩波文庫p42~43)

 

キリストが再臨されるまでのこの罪の世にあって、苦難とは、神から賜る最も大きな賜物なのではないかと、今、私は考える。

苦しむことが最も偉大な使命なのではないかと今では思う。

「受イエス・キリスト」、「キリストを受ける」とは、苦難を受けるということに他ならないのではないか、と。

キリストの再臨の時まで、キリストに従う者は、「キリストの苦しみのなお足りないところを」担う者として神に召されているのではないかと思えるのだ。

 

 

 

夫は、自分と結婚したために私がこんなに苦しい思いをしなくてはいけなくなったと考えていただろう。だから、自分より私の方が少しでも長生きして、私を自由にしてあげられたら良いなぁ、と言っていたのだ。

バカだなぁ、そんな風に考えるなんて。ほんとうにバカだ。