風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

江藤淳「庭と言葉」より

 つまり、建築が翻訳だとすれば、造園は詩か創作なのである。(略)これに対して庭師は、まず発語して自分の前にある“渾沌”、あるいは“自然”を分節化し、言葉に変えていかなければならない。彼の提示する意味は、建築家の提示する意味ほど自明では到底あり得ないが、その庭を眺める者は、詩や創作の意味を読み取ろうとする者のそれに等しい愉楽をあたえられるのである。

 それなら、このささやかな庭は、老庭師Aさんの“詩”にほかならなかった。その“詩”が、私の眼の前で書かれようとしているのであった。

 

 ある日、東京から戻ってみると、(略)。老庭師は、あの荒れ果てた地面を、ことごとくこの美しい肥沃な土で覆おうというのであった。すでに運び込まれたこの土は、“自然”や“渾沌”に属してはいなかった。それはむしろ“自然”や“渾沌”に“名”をあたえる、言葉の素材であった。(江藤淳=著『大きな空小さい空 西御門雑記Ⅱ』より「庭と言葉」)

 

 

江藤氏は庭師は詩人のようだとここで語っているが、おそらく庭師の仕事は神の仕事のようだと考えていたはずである。旧約聖書の創世記を知らないはずがないからだ。

 

 

初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。(創世記1:1~5)

 

 

 

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