風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

岩尾淳子=文(砂子屋書房『一首鑑賞 日々のクオリア』)より抜粋リンク掲載

病苦より逃れんとしてキリストに触れたりし指どこまで伸びる

             松村由利子 『光のアラベスク』 砂子屋書房・2019年

 

(略)

 

理由のない苦しみには耐えられない。罪と許しとの相関のなかに苦しみを理由づけることで救済が与えられる。作者は、そういう人類の苦しみにイエスのように寄り添っていこうとしているのだろうか。あるいは、その不可能性を抱えようとしているのだろうか。どちらにしても屈曲した情熱をはらんだ思想がここに捻じ込まれている。

ところで、聖書を読んでいると分からないことがたくさんある。 イエスは自らが犠牲になって、人々を罪から救い、永遠のいのちを与えたという。それは喜びではあろうけど、永遠のいのちって何だろうか。安らぎに到るまでに、イエスの赦しを得るまでに、もっと歩かねばならない。しかし思考はいつでも間に合わない。(岩尾淳子=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より)

 

この、「理由のない苦しみには耐えられない。罪と許しとの相関のなかに苦しみを理由づけることで救済が与えられる」という部分を拝見して、ドストエフスキーが「作家の日記」で書いているという次の文章を思い浮かべた。

 

キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう。