山崎行太郎=著『小林秀雄とベルクソン』は次の言葉から始まる。
矛盾にぶつからない思考が合理的なのではない。矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのである。つまり矛盾に直面しない思考とは、中途半端な思考であり、いわば矛盾することを恐れて、問題を回避した思考なのだ。しかし人はしばしば、矛盾に直面しない思考が合理的思考であり、矛盾をはらむ思考は非合理的思考である、と思いこんでいる。『小林秀雄とベルグソン』p8
この言葉には力がある。解決不能な現実の問題に晒されて立ち往生している者に前進をうながす力を持っている。
この数年、二人の病人を抱えて栄養学の深い森を彷徨ってきた私を支えてくれた言葉だ。
「詩人とは何か。それは新しい言葉を発明する人のことである。つまり言葉に言い表せないような体験によって感得したものを、言葉で言い表そうとするのが詩人である。『小林秀雄とベルグソン』p230#小林秀雄とベルクソン https://t.co/kj7CUVX584
— メロメロピー77 (@syodainekosuke) 2020年11月1日
若い頃、自分には詩は書けないと思った。にもかかわらず、分かりやすい簡単な、それでいて胸に沁み入る「詩」を必要としていた。
「詩」というものに出会ったのはいつの頃だったろうか?
小学生の頃だったとはっきり思い起こすことができる。
カレンダーの風景写真に添えられていた詩。
八木重吉の詩だ、エミリー・ディキンソンの詩だ、と。
木
八木重吉
はっきりと
もう秋だなとおもうころは
色色なものが好きになってくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行っていたいきがする
しかし、高校の頃いつも胸に抱いていた重吉の「神様あなたに会いたくなった」とは、どこで出会ったのだろう?
私の持っている重吉の詩集は、二冊とも短大時代に人から頂いたものだ。それ以前に知っていた詩は風景写真に添えられていたもの以外、どこで出会ったのか思い出せない。
再会
誰もいない
校庭をめぐって
松の下にきたら
秋がひっそりと立っていた
私は黙って手をのばし
秋も黙って手をのばし
まばたきもせずに見つめ合った
秋
秋は透明な
薄いむらさきだ
むらさきの秋は
騒がしいものを寄せつけない
体の透きとおる人をだけ
そおっと淋しくなでるのだ
むらさきの中では
淋しがりやだが
強い死なない人だけが
首をたれて
落葉をハラハラと浴びるのだ
矢沢宰『光る砂漠』より
山崎行太郎=著『小林秀雄とベルクソン』、古い懐かしい友人に再会したように、子どもが泣きながら眠るように、読み終えて眠った。
柄谷行人氏が絶讃、推薦した山崎行太郎の処女作。哲学者・文藝評論家=「山崎行太郎」誕生の書。
— 山崎行太郎bot (@Tetutarou0610) 2020年10月22日
『小林秀雄とベルグソン』https://t.co/aZiPtjB3zJ https://t.co/nNpPaMaW2c pic.twitter.com/hOvmUAyzlX