風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

赤星進=著『心の病気と福音(上)』と、「エア聖餐」

赤星進=著『心の病気と福音(上)』に、「自我の業としての宗教心的信仰」「私たちの中における神の業としての福音的信仰」ということが書かれていて、そこに、分裂病の場合には、(略)幻想的な信仰になっていく」(p169)と記されている。

 

この本は、夫が神学生時代に先輩牧師に勧められて購入して持っていたもので、私が読んで、その後大事に持っているものなのだが、勧めて下さった牧師と数年前にこの本の話をする機会があった。

その牧師は、「あの本にも、どうしたら良いかということは書いてないよね」と言われたのだった。

そうなのだ。最後のまとめ的な部分でも、「こういう分裂病躁うつ病の人々への伝道において、私たちが普通の健康な人々に対するのと同じように自我の業としての信仰から導いて行こうとしても、そういう導き方はこの病気の人々には通用しないということです。と言いますのは、そういう信仰の在り方、そういう伝道の在り方であるならばその人たちをますます病的な信仰、病的な宗教生活に追い込んでいくことになるからです」ということは語られているのだが、それじゃあ、どうすれば良いかということは語られていない。

そしてこれまで、「幻想的な信仰」と言われていることも、具体的にイメージできないでいた。

しかし最近、私などが良く言う「神様の思し召しだった」というような捉え方が病的になっていくと、「世界を救いなさいという神の声が聞こえる」というようなところに繋がってくのではないかと思ったのだった。神の御心などそう簡単には分かるはずもないのだが・・。

 

さて、教会の聖餐は依然として「エア聖餐」が続いている。

教会員の中にはもうそろそろ再開したいと思っておられる方もいるようだが、私は反対である。もちろん私は小会メンバーではないので議決権は持たないのだが、ここに反対意見は書いておこうと思う。

感染症流行の中で、聖餐を休止している教会の教会員が聖餐を求めて時折こちらに来られる。「うちでもやっていません」と言うとそのまま帰られる。そういう方がこのところ聖餐がなくても礼拝に参加して行かれるようになった。

そういった方のためにも、安易に聖餐を再開するのではなく、忍耐強く「エア聖餐」を続けるべきだと私は考える。

 

「聖餐に与れば罪赦される」という考えは、そこに固執し病的になれば、その信仰は魔術的な信仰へと行き着くと思われる。

本物の聖餐は受けられずとも、「エア聖餐」を受けながら、神の恵みを豊かに受け取る体験を重ねたいと思うのである。

 

そこで主はモーセに言われた。「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。

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こうしてイスラエルの人々は、四十年の間、人の住む地に入るまでマナを食べた。(出エジプト記16:4,35)

 


一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14:22~25)

  

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