風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『はるかな国の兄弟』のヨナタンとサウルの息子ヨナタン、そして米津玄師『迷える羊』から

 

『はるかな国の兄弟』の紹介で、「ここに登場する兄のヨナタン・レヨンイェッタをキリストをイメージして描いていると思う」と書いた。

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よけい 予型 旧約の出来事の中にイエスの出来事を予め示す型のことを言う。たとえば「アダムは来たるべき方(キリスト)を前もって表す者」と言われる。(『新共同訳聖書 聖書辞典』)

 

「予型」については、ヨブ記(神の考えと人の考え)ー転換点に立つ物語と、ちょこっと『カラマーゾフ』でも「ひな型」との対比で考えを書いたのだが、「予型」についての私の理解は十分でないようにも思える。

 

 タイポロジー 神学、聖書解釈において、特に旧約聖書の様々な記述、人物などの内に、キリスト教的な摂理に属する事柄の予型ないし予表を見出す解釈法のことで、キリスト教古代から存在する。例えばキリスト自身、自らの復活のしるし・象徴として、預言者ヨナが3日3晩大魚の腹の中にいて甦った出来事を語っているし、同様にパウロイスラエル民族が「出エジプト」の際、紅海(葦の海)を渡ったことを、洗礼の予型とみなしている。

 

(中略)

 

人物間の対応としてはアダム、モーセダビデがキリストの予型、エバやユディトがマリアの予型と見なされた。(『岩波キリスト教辞典』)

 

上記のように記されているのだが、ダビデについてはイエス自身がダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」(マルコによる福音書12:37)と言っている。

 

 

 この日、イスラエルの兵士は飢えに苦しんでいた。サウルが、「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と言って、兵に誓わせていたので、だれも食べ物を口にすることができなかった。この地方一帯では、森に入りさえすれば、地面に蜜があった。兵士が森に入ると蜜が滴っていたが、それに手をつけ、口に運ぼうとする者は一人もなかった。兵士は誓いを恐れていた。だが、ヨナタンは彼の父が兵士に誓わせたことを聞いていなかったので、手に持った杖の先端を伸ばして蜂の巣の蜜に浸し、それを手につけ口に入れた。すると、彼の目は輝いた。兵士の一人がそれを見て言った。「父上は厳しい誓いを兵士に課して、『今日、食べ物を口にする者は呪われよ』と言われました。それで兵士は疲れています。」ヨナタンは言った。「わたしの父はこの地に煩いをもたらされた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけでわたしの目は輝いている。

 この日イスラエル軍は、ペリシテ軍をミクマスからアヤロンに至るまで追撃したので、兵士は非常に疲れていた。

 

(略)

 

兵士はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもないことです。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落としてはなりません。」こうして兵士はヨナタンを救い、彼は死を免れた。サウルはペリシテ軍をそれ以上追わず、引き揚げた。ペリシテ軍も自分たちの所へ戻って行った。(サムエル記上14:24~46)

 

 

ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結び付き、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。その日、サウルはダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナタンダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を、剣、弓、帯に至るまで与えた。(サムエル記上18:1~4 聖書協会共同訳)

 

「自分自身のように愛する」というのは、本来キリスト以外の人間には出来ない行為なのだと思う。この部分から私には、ヨナタンこそキリストの予型だろうと思えるのである。

 

 

そして、

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千年どころかほとんど百年も生きることのない私達、驚くほど速く変わっていく私達の世界に、永遠の彼方から、永遠である方の声が響き渡って来るようである。

「友達よいつの日も 愛してるよ きっと」、と。