ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結び付き、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。その日、サウルはダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を、剣、弓、帯に至るまで与えた。(サムエル記上18:1~4 聖書協会共同訳)
旧約聖書の人物の中でもサウルの子ヨナタンほど魅力的な人物はいないと思うのだが、「ヨナタン」とは「ヤーウェ与えたもう」という意味であるようだ。
以下、『新共同訳聖書 聖書辞典』より抜粋引用。
[ヤーウェ与えたもう] 旧約中にこの名の人は10数人現れている。
① ダンにおける聖所の祭司となったモーセの孫。
② サウル王の長子。父と力を合わせてペリシテ人の束縛からイスラエルを解放した。ヨナタンは父サウルの過誤を熱涙をもって諫めた。ヨナタンの名はまたその親友ダビデとの友情に関連して、長く人の心に響くものをもっている。(『新共同訳聖書 聖書辞典』「ヨナタン」より)
「預言者」、「王」、「祭司」というのはキリストの三職と言われているが、祭司の務めは執り成すことであったようだ。
さて、ヨナタンはダビデをかばって、父サウルにこう言った。「王は僕ダビデのことで罪を犯したりなさいませんように。彼はあなたに対して罪を犯していないばかりか、むしろ大変お役に立っています。彼は自分の命を懸けてあのペリシテ人を討ち、こうして主はイスラエル全体に大きな救いをもたらしたのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。それをなぜ、訳もなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して、罪を犯そうとするのですか。」サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。ダビデが殺されることはない。」
そこでヨナタンはダビデを呼んで、このことをすべて伝えた。ヨナタンはダビデをサウルのもとに連れて行き、ダビデはこれまでどおりサウルに仕えた。(サムエル記上19:4~7)
ここでヨナタンがなしているのは執り成しの行為である。
それでもダビデはこう誓った。「お父上は、私があなたの好意を得ていることをよくご存じです。それでヨナタンが悲しむといけないから、知らせないでおこうと考えておられるのです。主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」(サムエル記上20:3)
これに対してヨナタンはこう応えている。
「ダビデはイスラエルの名立たる王である」という現代の常識的な感覚からすると、ヨナタンはダビデより低い地位にあってダビデに仕えたと思えてしまうのだが、このやり取りから見てもヨナタンの方が上であることが分かると思う。ダビデはサウル王の家臣であり、ヨナタンは王の長子なのだ。
ダビデの「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます」という言葉には、「私はあなた(ヨナタン)に対して嘘偽りは申しません」という意味が込められている。
これに対してヨナタンは「あなたの望むことは何でもしよう。」と応えている。
望むことを何でもする力を持っているということである。
箴言には次のような言葉がある。
世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。(箴言18:24 口語訳)
そして次のような言葉も・・。
友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。(箴言17:17 口語訳)
キリストは私たちの兄弟となってこの世に来てくださった。
世界は驚くほど速く変わっていく。
しかし人間にとって必要なものはそれほど大きく変わらないだろう。
ダビデの詩
わたしは心を尽くして感謝し
神の御前でほめ歌をうたいます。(詩編138:1)
〈 簡単な聖書研究 〉
1節「ダビデ」
表題に「ダビデ」とあるものはダビデの作と考えられてきたが、聖書学の進歩と共に、ダビデ自身のものというよりも、ダビデの苦難(逃亡生活、家族の問題)にイスラエルの苦難、自分の苦難を重ね合わせながら、またダビデの信仰に倣って神に祈り讃美したと考えられるようになってきた。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/08/20/103105)