風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

米津玄師『迷える羊』と、詩編の詩人

米津玄師の『優しい人』は、言わばドストエフスキーの「日記」のようなものなのだと思う。作者の核がこういったものに表れている。そこから『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』、あるいは『カムパネルラ』や『感電』のような作品が生み出されるのだ。

 

優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに (『優しい人』)

 

 

正しくありたい あれない 寂しさが
何を育んだでしょう (『まちがいさがし』)

 

正しさの主張にあふれかえる世界の中で、米津玄師は、正しくあろうとしてそうあることの出来ない自分たちというものを知っているのだと思う。

 

よう相棒 もう一丁 漫画みたいな喧嘩しようよ
洒落になんないくらいのやつを お試しで
正論と 暴論の 分類さえ出来やしない街を
抜け出して互いに笑い合う
目指すのは メロウなエンディング (『感電』)

 

しかし、この若さでそういったことが分かっているというのは凄いことだ!

 

きっと永遠が どっかにあるんだと
明後日を 探し回るのも 悪くはないでしょ (『感電』)

 

「永遠に変わらないものがどこかにないだろうか」と思って、私は教会に行った。中学3年の夏だった。若かった!

 

 

f:id:myrtus77:20200824164337j:plain

誰かが待っている 僕らの物語を

(略)

列なす様に 演劇は続く 今も新たに 羊は迷う
堪うる限りに 歌を歌おう フィルムは回り続けている

(略)

「君の持つ寂しさが 遥かな時を超え
誰かを救うその日を 待っているよ ずっと」 (『迷える羊』)

 

今、祈り会では詩編から聴いている。

何千年も前に生きた詩編の詩人の苦しみや悲しみや怒りの言葉が不思議と私を宥めてくれる。

 

バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。

竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

わたしたちを捕囚にした民が
  歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

 

どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。(詩編137:1~4)

 

       ダビデの詩

わたしは心を尽くして感謝し
神の御前でほめ歌をうたいます。

 

(略)

 

わたしが苦難の中を歩いているときにも
敵の怒りに遭っているときにも
わたしに命を得させてください。

御手を遣わし、右の御手でお救いください。(詩編138:1、7)

 

 

 

〈 簡単な聖書研究 〉

1節「ダビデ

 表題に「ダビデ」とあるのは150ある詩編の半数近く。

 表題に「ダビデ」とあるものはダビデの作と考えられてきたが、聖書学の進歩と共に、ダビデ自身のものというよりも、ダビデの苦難(逃亡生活、家族の問題)にイスラエルの苦難、自分の苦難を重ね合わせながら、またダビデの信仰に倣って神に祈り讃美したと考えられるようになってきた。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/08/20/103105

 

 

  

youtu.be

 

そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。(マタイによる福音書25:1)