風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神は、捨てることをさえ用いて・・(礼拝説教より)

聖書:ローマの信徒への手紙 11:11~15(新共同訳)

 パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。

 神の救いの歴史を救済史と言いますが、パウロは神の救いの歴史を思い巡らしながら、イスラエルが躓いたことの意味に気づき始めます。

 

 パウロは問います。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。」

 何に躓いたのでしょうか。それは、神の御心に躓いたのです。

 神が独り子を救い主として遣わし、救い主を裁くことによって罪人を裁きから救い出し、わたしたちのために裁きを受けられたキリストを信じることを通して、神は正しい関係、すなわち義を与えようとしておられます。

 しかしユダヤ人は、それを拒絶してしまいました。自分たちの期待と神の御心が違うとき、罪人は躓きます。彼らは、自分たちがイスラエルであることを誇りたかった。律法を与えられ、それによって歩んでいる自分を誇りたかった。キリストを信じることによってではなく、神の民として生まれた自分自身に価値があることを誇りたかった。つまり、神ではなく自分を誇りたかったのです。

 

 ただ、その躓きは地面に倒れ込んで二度と立ち上がれないような躓きだったのでしょうか。「そうではない」とパウロは考えます。

 そうではなく、ユダヤ人の罪、過ち、躓いたことによって、異邦人に救いがもたらされたのです。

 そして異邦人に救いがもたらされたことは、ユダヤ人に妬みを起こさせるためだったのです。

 何を妬むのでしょうか。

 それは、異邦人が救いを喜び、神を誉め讃えて神と共に歩んでいることをです。

 本来なら、神はアブラハム・イサク・ヤコブの神であり、ユダヤ人の神なのです。それなのに今や異邦人が神と共に生きている。自分たちのものであった旧約の御言葉も神の言葉として受け入れている。「なぜだ」という妬みを起こさせ、ユダヤ人の思いを神へと向けさせるために、異邦人に救いがもたらされたのです。

 

 イスラエルの救いに思いを巡らしていたパウロは、気づきます。神の民はイスラエルだけではない、神は異邦人も神の民としようとしておられる。神はイスラエルの神でもあられるが、異邦人の神でもあられる。神はお造りになった世界に救いが満ちるために御業をなしておられる。聖書は告げます。「この方(イエス キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(1ヨハネ 2:2)

 

 「彼ら(ユダヤ人)の罪が世の富となり、彼ら(ユダヤ人)の失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(ユダヤ人)が皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 ここで罪と訳された言葉には「踏み外す」という意味があるそうです。そして失敗と訳された言葉は、減少・不足を表します。つまり、神の民イスラエルが全部イエス キリストを信じないで、わずかの者だけが信じているという現状を失敗と理解したようです。つまりここは、ユダヤ人が神の御心である救いの道を踏み外したこと、けれどそれが、世の富・世の益・世の救いとなり、ユダヤ人が皆救いに与ることに失敗したこと、それが異邦人の富となり、益となり、救いとなったというのは素晴らしいこと。そして神の救いの御業はまだ終わってはおらず、今もなお救いの御業は前進し、新たな神の民が起こされている、ということが言われているのです。

 ここでパウロは、救いの完成を仰ぎ見たのです。「まして彼ら(ユダヤ人)が皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」実はこの文章「どんなにかすばらしいことでしょう」とは書いてないのです。原文は感嘆文のような形で「ましてや彼らの満ちることが」(田川建三訳)となっています。満ちるというのは、欠けていたもの、キリストを信じないで救いから外れていた者たちが救いへと導かれ神の民が満たされることを言っています。

 元々パウロは、キリストを受け入れない迫害者でした。その無理解、頑なささえも神はさらに大きな救いの御業のために用いられる。その救いの完成の幻をパウロは神から与えられたのです。神は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働」いてくださるお方なのです(ローマ 8:28)。

 

 パウロは神に望みを置きます。神は自らの愚かさ・罪深さによって救いの道を踏み外した者をさえ諦めることなく、神の民を満たすまで救いの業をなしてくださるのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで」いてくださいます(1テモテ 2:4)。わたしたちの救いの希望は、独り子をさえわたしたちに与えてくださる神の愛のただ中にあるのです。

 

 神に救いの幻を示されたパウロは、今、異邦人の使徒とされていることを心から受け入れます。「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。」そして神が自分の働きを用いてくださり「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救」ってくださるようにと祈り願います。

 そしてさらにこう言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」

 

 パウロは旧約に記された神の救いの歴史、イエス キリストの出来事、神が仰ぎ見させてくださった救いの完成を思います。

 ファラオを頑なにし、出エジプトにおいて、神が救いの神であることを証しされました。絶望の中にいたエリヤに七千人の神の民を残し、神の救いの御業は何者によっても妨げられないことを明らかにされました。

 

 イエス キリストが捨てられることにより、罪の赦しと永遠の命を現されました。そして神は救いの道を踏み外した者をさえ導いてご自身の民を満たされます。

 

 神は、捨てることをさえ用いて世界の和解をなしてくださいます。神はすべての御業を救いのためになしていてくださるのです。捨てられた者が神に受け入れられることは、神が証ししてこられた「罪により死んでいた者が命へと導き入れられること」なのです。

 

 神は既に預言者エゼキエルに語っておられました。「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。・・わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」(エゼキエル 37:12~14)

 

 パウロは気づきます。神は自分が理解し尽くすことのできない大きなお方であり、その御心の内に救いがあることを。神はお造りになったすべての命を愛しておられる。すべての救いを願っていてくださる、と。

 

 教会に集うお一人おひとりが、自分の思いを超える神に出会い、すべてを包む救いに与る喜びと平安を得られますように。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/07/12/181944

 

 

今日の説教個所は凄いところだった、と思った。

エス・キリストが十字架上で捨てられるというのは、イスラエルが捨てられることの完成形だったのだ、と思ったのだった。

 

 

myrtus77.hatenablog.com