ドストエフスキー作品についてばかり書いているとアクセス数が低迷するようなのだが(笑)、構わず続けようと思う。
「ドストエフスキー『罪と罰』33」で『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフについて書いていて、イワンの台詞が気になった。
「おい、お前は不幸な、卑しむべき人間だな! 俺がいまだにまだお前を殺さずにきたのは、明日の法廷で答えさせるためにとっておくんだってことが、お前にはわからないのか。神さまが見ていらっしゃる」イワンは片手をあげた。(略)
イワンは荘重に力強くこう言い放った。光りかがやくその眼差しだけからも、きっとそうなることは明らかだった。
「あなたはご病気なんですよ。こうして拝見していても、まったく病人ですもの。(新潮文庫『カラマーゾフの兄弟 下』p311)
(赤字表記は、管理人ミルトスによる)
そしてこの後、スメルジャコフの以下の言葉に続いていく。
それというのは、『すべては許される』と考えたからです。これはあなたが教えてくださったんですよ。あのころずいぶんわたしに話してくれましたものね。もし永遠の神がいないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要がないって。あなたは本気でおっしゃってたんです。だからわたしもそう考えたんですよ」(『カラマーゾフの兄弟 下』p313)
このイワンの「神さまが見ていらっしゃる」という言葉は、スメルジャコフにとっては致命的だったろう、と思ったのだった。「イワン、そりゃぁないよ」、と。
しかし、この言葉を見て、分かった、イワンはこの世の不条理に耐えきれなくて、神を《渇望していながら》否定しようとしたのだ、と。
私はやっぱりイワンが好きだな。
忍耐とは、癇癪持向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間だと言っても差支えないなら、忍耐とは、時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。
— 小林秀雄bot (@hideo_critic) 2020年6月19日
【還暦】※若干編集
わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ローマの信徒への手紙5:3~4)
だが、
「お前はそんなことまですべて、あのとき、あの場で考えぬいたのか?」おどろきにわれを忘れて、イワンは叫んだ。彼はまた怯えたようにスメルジャコフを眺めた。
「とんでもない、あんな急いでいる中でそこまで考えられるもんですか? すべて、前もって考えぬいておいたんです」
「じゃ・・・・・じゃ、つまり悪魔の助けがあったんだ!」イワンはまた叫んだ。(新潮文庫『カラマーゾフの兄弟 下』p310
(赤字表記は、管理人による)
こんなことまで言っちゃてる。「悪魔」だなんて、やっぱりイワン酷すぎるよね。
ドストエフスキー作品は本当におもしろい、と思う。ついついちらちら読み返しては突っ込みを入れたくなってしまう。