風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」− ドストエフスキー『罪と罰』28

「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉は聖書の中でもあまりにも有名な言葉だろうと思うが、これについて記されたルカによる福音書の方では以下のように続いている。

そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:9~12)

 

ある時ここを読んで思ったのは、これでは、「私が求めていたのはそんなもの聖霊ではない」と思う人がいるのではないだろうか?ということだった。しかし・・。

 

キリストはまた、最も大事な戒めとして、「主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22)と命じられたが、愛の関係というのはまさに、他の何でもなく、また他の誰でもなくあなたが欲しい(あなたを求める)という関係なのだ、ということである。

 

 

ソーニャはその人生において娼婦にまで身を落とされながら「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」という言葉を発している。

「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」ふいにきらきらと輝きはじめた目でちらと彼をふり仰いで、彼女は早口に、力をこめてささやき、彼の手をきつくにぎりしめた。

 『ははん、やはりそうか!』と彼は思った。

 「じゃ、そのかわりに神さまは何をしてくださるんだい?」彼はさらに問いつめた。

 ソーニャは返事に窮したように、長いこと黙っていた。彼女の弱々しい胸は、興奮のためにはげしく波だっていた。

 「言わないで! 聞かないでください! あなたは、その資格のない人です!・・・・・」きびしい怒りの目で彼を見つめながら、だしぬけに彼女が叫んだ。

 『やはりそうだ! やはりそうだ!』彼は心のなかでしつこくくりかえした。

 「なんでもしてくださいます!」彼女は、また目を伏せて、早口にささやいた。

 『これが結論さ! 結論の説明さ』彼はむさぼるような好奇のまなざしで彼女をながめまわしながら、ひとりこう断定した。(岩波文庫罪と罰 中』p280)

赤字表記は、管理人ミルトスによる)

 

引用した中で、ラスコーリニコフ「じゃ、そのかわりに神さまは何をしてくださるんだい?」と問う場面がある。このラスコーリニコフの問いは取引の関係を表している。

この問いに対してソーニャは、きびしい怒りの目を向けながら、ラスコーリニコフに向かって「あなたは、その資格のない人です!」という言葉を投げつけている。

「信じますから、その代わり何を頂けますか?」という取引の関係を提示する者は、愛の関係の中に入る資格を持たない。

 

 

ラスコーリニコフがソーニャについてここで断定しているのは、彼女が「聖痴愚」だということである。

「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」については、訳注に以下のように説明されている。

本来は苦行層の一種で、信仰のために肉親や世間とのつながりを絶ち、常識や礼儀をさえわきまえぬ狂人、痴愚をよそおって、真実の神の言葉を説いた者をいうが、ロシアでは、このユロージヴイへの信仰が他のどの国にもまして民間に広く普及していた。いくぶん神がかった狂人や白痴をこの名で呼んで、神のお使いとして大切にした風習もあった。コリント前書四章十節の教会スラヴ語訳に「われらはキリストにより愚かなる者なり」とあるのが典拠とされている。ドストエフスキーはこの現象にきわめて深い関心をもち、『白痴』のムイシキン公爵、『悪霊』のマリヤ・レビャートキナ、『カラマーゾフの兄弟』の「いやな臭いのリザヴェータ」、アリョーシャなどをこの名で呼んでいる。(岩波文庫罪と罰 中』「訳注」)

 

ラスコーリニコフはソーニャについて、もしや「発狂の徴候」が出ているのではないかと心の中で思い、この部分では「聖痴愚」だと断定したのである。

信仰を持つということは、狂人となることと等しいというようにも受け取れる。

神ではなく、お金があって健康でそこそこの幸せな人生をおくれることを求めている人達からは、不幸のぞん底にありながらソーニャのような言葉(「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」)を発する者は狂人と見なされるのではないだろうか?

しかし、「神がいる」と「神はいない」の、この間には大きな隔たりがある。

 

自分の幸せを願って祈り求める者に、神は神ご自身(聖霊なる神)を与えてくださるというのだ。つまりそれは、愛し合う関係を与えようということである。

 

そして神は、愛ゆえに、その御ひとり子イエス・キリストを与えてくださった。

 

「愛する」とは「狂気の沙汰」であると、愛することを求めたことのない人の目には映るかもしれない。

 

しかし、ソーニャはまさに愛する者達のためにその身を捧げた者として描かれている。

 

 

身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 (マルコによる福音書3:21)