風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ソーニャ 6 − ドストエフスキー『罪と罰』

グリム童話『手なし娘』とソーニャ で私は、「この『手なし娘』に象徴されているのは、《徹底した無力》であろうと思われる」と書いた。そして、「ソーニャから思い浮かべたのは、この『手なし娘』であった」とも記した。

 

この《徹底した無力》は、十字架上のキリストにおいて極まっていると言える。

義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ書53:11、12 口語訳)

 

 

ソーニャにおいての無力は以下の引用部分に表されている。

ここでソーニャは、愛する者達を守るという点において徹底的な無力の中に立たされているのだ。「ラザロの復活」の朗読はこの後に置かれている。

 「カチェリーナ・イワーノヴナは肺病なんですよ、悪性の。もう長いことはありませんね」ラスコーリニコフはしばらく無言でいてから、質問には答えずに、こう言った。

 「いいえ、うそです、うそです、うそです!」そう言いながらソーニャは、どうかそれがうそであってくれと哀願でもするように、無意識に彼の両手をつかんだ。

 「だって、そのほうがいいじゃありませんか、亡くなってもらったほうが」

 「ちがいます、よくなんかありません、よくなんか、ちっともよくなんかありません!」彼女はおびえたようになって、とりとめもなくくりかえした。

 「でも、子どもたちは? お宅へ引きとるわけにいかないとすると、そのときはどこへ?」

 「ああ、わかりません!」ソーニャはほとんど絶望的にこう叫んで、頭をかかえた。明らかにこの考えは、もう何度となく彼女自身の頭にうかんだことで、いま彼女は、あらためてそれを突き出したにすぎなかった。

 「じゃ、もしあなたが、まだカチェリーナ・イワーノヴナの生きているいま、病気をうつされて病院送りになったとしたら、そのときはどうなるんです?」彼は容赦なく問いつめた。

 「ああ、何を、何をおっしゃるんです! そんなこと、ぜったいにありっこない!」ソーニャの顔はおそろしいまで恐怖にゆがんだ。

 「どうしてありっこないんです?」ラスコーリニコフはこわばった薄笑いをうかべてつづけた。「あなただけが例外という保証はないでしょう? そうなったら、あのひとたちはどうなるんです? みなでぞろぞろ街頭に出て行って、ごほんごほん咳きこみながら、物乞いをやりますか。そしてあのひとは、今日のように、どこかの壁に頭をぶちつける、子どもたちは泣きわめく・・・・・そのうち街なかで倒れて、交番に運ばれ、病院に送られて、死んでしまう、すると、子どもたちは・・・・・」

 「ああ、ちがいます!・・・・・神さまがそんなことをお許しにはなりません!」ようやくこれだけの言葉が、しめつけられたソーニャの胸の底からとび出した。

 

(略)

 

 「ポーレチカも、たぶん、同じことになるでしょうね」だしぬけに彼が言った。

 「ちがいます! ちがいます! そんなことになるはずがありません、ありません!」ふいにナイフで切りつけられでもしたように、ソーニャは必死の思いで、大声をあげた。「神さまが、神さまがそんな恐ろしいことをお許しになりません!・・・・・」

 「ほかにはいろいろと許しているんだがな」

 「ちがいます、ちがいます! あの子は神さまが守ってくださいます、神さまが!」彼女はわれを忘れてくりかえした。

 「でも、もしかすると、その神さまもぜんぜんいないのかもしれない」ラスコーリニコフは、ある種の意地わるい喜びをさえおぼえながらこう答え、声に出して笑いながら、彼女を見やった。

 ソーニャの顔がふいにがらりと変わって、顔中がひくひくと痙攣しはじめた。言葉にならない非難のこもったまなざしで彼を見あげ、何か言おうとするふうだったが、なにひとつ声にはならず、ただ、突然両手で顔をおおって、おいおいと声をあげて泣きだした。(岩波文庫罪と罰 中』p271~p274)

 

 

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイによる福音書27:45、46)

 

 

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