「ぼくは用事を話しにきたんだ」ラスコーリニコフが、突然、顔をしかめて、大声に口をきり、立ちあがって、ソーニャに近づいた。(略)
「ぼくは今日、肉親を捨てたんだよ」と彼は言った。「母親と妹をね。もう、ふたりのところへは行かないんだ。あそこできっぱりと縁を切ってきた」
「なぜです?」ソーニャは呆気にとられたようにたずねた。(略)
「いま、ぼくにはきみひとりしかいない」と彼はつづけた。「いっしょに行こう・・・・・ぼくはきみのところへ来たんだ。ふたりとも呪われた同士だ、だからいっしょに行こうじゃないか!」(略)
「どこへ行くんです?」彼女は恐ろしそうにたずねて、思わずあとずさった。
「どうしてぼくが知るもんか? ぼくが知っているのは、行く道がおなじだということだけさ、これはたしかだけど、それだけだ。行先がひとつなんだよ!」
ソーニャは彼を見つめていたが、何ひとつ理解できなかった。理解できたのはただ、彼が恐ろしく、限りもなく不幸だということだけだった。
(略)「だが、ぼくはわかったんだ。きみはぼくに必要な人だ、だからぼくはここへ来たんだ」(岩波文庫『罪と罰』中p290~291)
ここは、ソーニャがラザロの復活を朗読した後の場面である。この時点ではまだ、ラスコーリニコフは老婆殺しの告白はしていない。
ラスコーリニコフは、同伴者としてのソーニャを無意識のうちに感得しているのだ。
兄はひとりきりではない。彼女、ソーニャのもとへ、兄は最初に懺悔にやってきた。兄は人間が必要となったとき、彼女のなかに人間を求めた。彼女は、運命のみちびくまま、どこへでも兄の後について行くにちがいない。(岩波文庫『罪と罰 下』p350)
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:23 聖書協会共同訳)
ここでドストエフスキーが描いているのは、「インマヌエル」、「われらと共におられる神」としてのソーニャである。
否、「ドストエフスキーがこの作品全体を通して描こうとしているのが」、と言い換えた方が良いのかもしれない。
「あなたはこの世界のだれよりも、だれよりも不幸なのね!」彼の言葉も聞こえぬらしく、彼女は夢中で叫んだ。そしてふいに、ヒステリーでも起きたように、おいおいと泣きはじめた。
もうとうの昔に忘れていた感情が、ひたひたと彼の心に押しよせ、たちまちそれをなごめた。彼はその感情に逆らわなかった。ふたつの涙の玉が彼の目からあふれ、睫毛にとまった。
「じゃ、きみはぼくを見捨てないんだね、ソーニャ?」希望をさえ宿したような目で彼女を見ながら、彼は言った。