風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子61

 

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて  葛原妙子『葡萄木立』

 

 酸いぶどう酒とは酸っぱいぶどう酒のことです。英語の訳を見ますと、ビネガーと訳されているものもあります。ワインから作った酢、ワインビネガーのようなものでしょう。これは苦しみを軽減するものと考える人もいたようです。苦しみが軽減されればエリヤが来ないかもしれないので「待て」と言ったのでしょう。

 「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られ」ました。(45~50)

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/04/05/182045

 

説教でここの部分を聞いた時、上掲の葛原妙子の短歌を思い浮かべた。

この歌は「晩夏光おとろへし夕」とあるから、直接キリストにつなげて作られたものというより、晩夏の頃の実際の情景から発想した歌だろうとは思う。が、同じ『葡萄木立』の中に以下のような歌があるので、全くキリストとは関係ないと言い切ることもできないように思われる。

 

ありがてぬ甘さもて恋ふキリストは十字架にして酢を含みたり 

 

この歌は、「ありがてぬ」という言葉が私には文法的にどうしても理解できなかったので触れないできたのだが、「ありがてぬ」の横に線を引いて「耐えられない」とメモっている。この時点で自分なりに一定の解釈をしたのだろう。

「あり得ない」、「耐えきれない」ほどの甘さをもって恋う?

恋うのは、甘さなどない「酢」である。甘くなどない「酢」を「甘さもて恋ふ」のである。それほどに「恋う」ということか?

 

この、酢が差し出される場面でのキリストの対応は4つの福音書で一様ではない。

マタイとマルコ福音書では飲まずに息を引き取る。ルカでは、兵士達が酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱する場面はあるが詳細な記述がないまま他の犯罪人とのやり取りへと移っている。

ヨハネによる福音書だけが酸いぶどう酒をイエスが受けたと記している。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネによる福音書19:28~30)

 

葛原妙子はこのヨハネの記事からこの歌を詠んだのだろう。「渇き」の中でイエスは、私たちには考えられないほどの甘さをもって「酢」を恋うたのだ。

 

一本の壜の中に酢が立っていることを詠った「晩夏光」の歌の後には、「立つ」ということを詠った歌が何首か続いている。この「立つ」は、二十数ページ後のこの短歌の、キリストが酢を口に含んだ十字架へと確実につながっていると考えられる。

立ち続ける十字架上にイエスは留まり、「酢」を受けられたのだ。こうして救いの御業が成し遂げられた。

 

エスの口に含まれ受け入れられた「酢」が、衰えゆく晩夏光を受けながら、あたかもくっきりと立ち上がってきたかのような歌である。