ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。(創世記32:31 新共同訳)
ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」(士師記6:22,23)
神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト記3:6 新共同訳)
姦淫する者の目は、夕暮れを待ち だれにも見られないように、と言って顔を覆う。(ヨブ記13:24)
おそらく聖書をすべて頭に入れていたであろうファリサイ人パウロが、(旧約)聖書から思考した神学を手紙として書き送った、それがパウロの書簡だろう。だから旧約聖書が土台に据えられている。
私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。(コリントの信徒への手紙一13:12 聖書協会共同訳)
ここの訳は、聖書協会共同訳でより一層分かりやすくなったと思う。
従来の訳では、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(新共同訳)、「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(口語訳)というように、誰に知られているのかという部分がはっきりしなかった。もちろんちょっと考えれば分かると言われる方もいるかも知れないが、「神に」という一言が入ったために、それこそ「はっきりと」分かるようになったと思う。
何が分かるようになったのか?
何を知ることになるのかが分かるようになったのだ。何を知るのか?
「顔と顔とを合わせて見る」とき、
自分の抱えている罪を知るのであり、そればかりか、罪を抱えた私を愛して止まない神の愛を知ることになるのである。
ちらりとソーニャを見たラスコーリニコフが、自分の罪を知り、その罪を抱えた自分に向けられたソーニャの愛を知ったように・・。
彼はちらりとすばやく彼女を見やると、ひとことも言わず、目を伏せて地面を見つめた、(略)
どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた。(岩波文庫『罪と罰 下』p400~401)
この時、ペテロは何も悪いことはしていません。けれど、「私は罪深い者です」と告白しています。(略)恵みを受けて罪を知りました。(抜粋)