風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「苦しみを受け、その苦しみによって自分をあがなう、それが必要なのです」 - ドストエフスキー『罪と罰』19

「苦しみを受け、その苦しみによって自分をあがなう、それが必要なのです」(岩波文庫罪と罰 下』p136)

これはラスコーリニコフに向かってソーニャが語る言葉である。

「あなたが汚した大地に接吻なさい」 − ドストエフスキー『罪と罰』13 」でも書いたのだが、ソーニャの語るこの言葉のラスコーリニコフの受け止めがずれていると思われるのだが、ソーニャの使っている「苦しむ」という言葉も二方向に使い分けられているように思う。

ここでソーニャが勧めているのは、直接的な自首ではないだろう。しかしラスコーリニコフはソーニャの言葉を「自首すること」と受け取る。そして自首はしないとラスコーリニコフが答えると、ソーニャは「苦しむことになるわ、苦しむことに」と言い、「そんな苦しみを背負ってゆくなんて! それも一生、一生涯!・・・・・」(p137)と絶望的に語るのだ。

 

ポルフィーリイもまたラスコーリニコフ「苦しみもいいものですよ。苦しまれることですな」(岩波文庫罪と罰 下』p220)と勧め、「私にはね、あなたが「苦しみを受ける気になる」という確信まであるんです」と語っている。

しかしまた、「逃亡生活というのは、いやらしい、苦しいものだが、あなたが何より必要としているのは、生であり、確固とした立場であり、自分のものである空気なんですからね」(p223)と、「苦しむ」という言葉を「苦しみを受ける」という言葉と逆方向で使っている。

 

つまり、ドストエフスキーがソーニャとポルフィーリイによって語らせているのは、罪を犯した時点から苦しみが始まるということであり、神の前に悔い改めるのでなければその苦しみは一生涯続くということである。

神の前に悔い改めるというのはどういうことだろうか?

この時点でラスコーリニコフは自分の犯した罪を様々な理屈に当てはめて正当化しようとしている。自分の犯した罪を正当化しようとする、ここにこそ罪が潜んでいる。

アダムがエバのせいにしたように・・、エバが蛇のせいにしたように・・(創世記3章)。

だから、「彼女は、ラスコーリニコフの虚栄心、傲慢さ、自負心、不信心を知っていた。『あのひとを生きつづけさせることのできるものは、臆病さと死への恐怖だけしかないのだろうか?』最後に彼女は、絶望に落ちこみながら、こう考えた」(下p351)と記しているのである。

 

私はこれまで他の登場人物と比較しながらラスコーリニコフについて書いてきたのだが、ここで、ラスコーリニコフの罪がどこから来たものなのかを思い出す必要があるだろう。

ラスコーリニコフは自分だけのために金貸しの老婆を殺したのではなかった。だからこそポルフィーリイにも、「あなたが何より必要としているのは、(略)自分のものである空気なんですからね」と、ドストエフスキーは語らせているのだ。

 

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言った。そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。(使徒言行録2:37,38)

 

自分だけのためか、そうではないか、この二つの間には大きな隔たりがある。

 

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しかし、自分のためだけに生きている者は自分の犯した罪さえ自覚することはないだろう。

自覚もせず、本心から悔い改めることもないものが赦されることがあるだろうか?

私は、決してない、と思う。

 

 

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