風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ドゥーニャと、「愛のおのずから起るときまでは」(雅歌) - ドストエフスキー『罪と罰』18

「愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように」― この言葉は雅歌の中で繰り返し語られる言葉である。

若い頃は、しつこく繰り返されているように思えたのだが、検索をかけてみると、2章7節、3章5節、8章4節の3箇所だけだった。

若い頃は、倫理的、道徳的なものとして受け取っていたのだが、『罪と罰』を読んで、そうではないと思わされた。

この言葉は、「愛と自由」に関連した言葉だろうと思う。

 

「スヴィドリガイロフ - ドストエフスキー『罪と罰』14 」で、「スヴィドリガイロフを中心に描かれているのは『愛と自由』ということだろう」と書いたのだが、このことはドゥーニャの側からも言えることだろうと思う。

ドゥーニャは兄ラスコーリニコフのことを思い、ルージンとの意に染まぬ結婚を決意するのである。その事を知らせる母からの手紙を読んで、ラスコーリニコフは心の中で悪態をつく。

アヴドーチヤお嬢さん、きみのお嫁入り先は、実務家の合理主義者ってわけだ。財産もあり(もうご自分の財産をおもちで、といえば、堂々として聞こえもいいさね)、二個所にお勤めで、わが国の最新世代の思想に共鳴しておられ(こいつは母さんのせりふだ)、ご当人のドゥーネチカにいわせると、「ご親切らしい方」ときた。らしいとはまた傑作じゃないか! でドゥーネチカは、このらしい方のところへお嫁入りって寸法だ! こいつはいい! けっこうな話さ!・・・・・』

『(略)それはそうと、「ドゥーニャを愛してやってください、ロージャ、あの子は自分自身よりもおまえのことを思っているのです」というのはなんだろう? 息子のために娘を犠牲にするのを承知したんで、ひそかな良心の呵責に責められているわけかな。(略)』彼の内心は憎悪に煮えくりかえらんばかりだった。

(略)

しかしドゥーニャ、ドゥーニャはどうなんだ? だって、あいつは相手の正体を見抜いているくせに、その相手といっしょになろうっていうんじゃないか。あいつは、黒パンに水しか飲めない暮らしでも、自分の魂を売ったりするような女じゃない。安楽な生活のために精神の自由を渡したりはしない。ルージン氏どころか、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国をそっくりくれると言われたって、渡しやしない。そうとも、少なくともおれの知っていたドゥーニャは、そんな女じゃなかった。いや・・・・・いまだって、もちろん、変わっているわけがない!・・・・・わかりきっている!

(略)

わが身のため、わが身の安楽のためなら、いや、われとわが生命を救うためにでも、自分を売ったりはしないくせに、いざ他人のためとなると、こうして売ってしまうんだ。愛し、尊敬する人のためには売ってしまう!ほら、これが手品の種あかしさ、兄のため、母親のためなら売る! なんでもかんでも売ってしまうんだ! ああ、人間というやつは、こういう場合になると、自分の道義心さえおし殺して、自由も、安らぎも、良心さえも、いっさいがっさい、古着市場へ持ちこむものなんだ。自分の一生なんか、どうとでもなれ! ただ愛する人たちがしあわせになってくれさえすればいい。そればかりか、ジェズイット教徒そこのけに、自分なりの小理屈までひねりだして、目先だけにせよ、自分を安心させる。これでいいんだ、正しい目的のためにはこれでなくちゃいけないんだと、自分に言いきかせる。(略)この芝居のいちばんの主役は、まちがいなく、かく言うロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフなんだ。まあ、それもいいさ、彼を幸福にしてやることも、大学をつづけさせることも、法律事務所の共同経営者にしてやることも、生涯困らぬようにしてやることもできるんだからな。それに、ひょっとすれば、そのうちには大金持ちになって、名誉と尊敬を一身にあつめ、一流の名士として生涯を終えるかもしれない! だが、母さんは? なに、問題はロージャなのさ、だいじなだいじな総領息子のロージャ! こういう息子のためなら、あんな立派な娘を犠牲にしたって、悪かろうはずはないってわけさ! ああ、なんと愛すべき、まちがった心だろう!

(略)

ルージン式の小ぎれいが、ソーネチカの小ぎれいと同じことで、いや、ことによると、もっとみにくい、不潔な、いやしいものかもしれないってことが、きみにはわかるのかい?だって、ドゥーネチカ、きみの場合は、なんと言ったって、いくらかは安楽な暮らしをしたい目当てがあるが、ソーニャの場合は、それこそ餓死するかしないかの瀬戸際なんだからね。(岩波文庫罪と罰 上』p89~96)

 

『うそをつけ』彼は憎々しげに爪を嚙みながら、胸のなかで考えた。『自尊心の強いやつだ! 慈善事業がしたいくせに、本音を吐こうとしない! ああ、いやしい根性だよ! やつらの愛なんて、憎しみと変わりやしない・・・・・ああ、おれは・・・・・こういう連中が憎くてならないんだ!』

「つまり、わたしはルージンさんと結婚します」ドゥーネチカはつづけた。「ふたつの悪のうち、より小さな悪を選びたいの。わたしはあのひとがわたしに期待していることを、何もかも誠実に果たすつもり。だから、あのひとをあざむくことにはならないと思う・・・・・どうして笑ったりするの、兄さん?」

彼女も同じようにかっとなった。その目に怒りがひらめいた。

「何もかも果たすのかい?」彼は毒々しく笑いながら聞きかえした。

「(略)」

「(略)きみがルージンを尊敬したりできるものか。ぼくは彼に会ったし話もしたがね。つまり、きみは金で自分を売ろうとしているのさ、要するに、少なくともいやしい振舞いなんだよ。(略)」

「うそよ、わたし、噓なんかついていない」ドゥーネチカは完全に冷静さを失って叫んだ。「あのひとがわたしを評価して、尊敬してくれる確信がなければ、結婚なんかするものですか。自分もあのひとを尊敬できる固い確信がなければ、結婚するものですか。さいわい、わたしはそういう確信がもてると思うの、きっと、ええ、今日のうちにも!こういう結婚は、兄さんが言うように、卑劣なことじゃないわ!(岩波文庫罪と罰 中』p86~87)

 


以下は昔書いた絵本の紹介。

『ねぇ,どれがいい?』ジョン・バーニンガム作(評論社)

 

この絵本は,ページごとに「もしもだよ,きみんちの まわりが かわるとしたら,大水と,大雪と,ジャングルと,ねぇ,どれがいい?」というような問いがあって,読者が選ぶ事で成り立つような絵本です。

絵本作家というのは発達心理学者かと思える程に,幼児の発達について良く分かっているなぁと思うことがあります。

乳幼児の発達心理学では,この選ぶという行為は1才半頃からすでに顕われるといわれています。この頃はまだ,中身を比較検討して選ぶという事はできないので,同じ物が二つあっても,どちらかを選ぶようです。選ぶという行為自体が大事なようです。どうしても食べたがらない嫌いな食べ物などがある場合に,同じ物を二つ用意して選ばせてやると案外すんなり食べたりする事もあるようです。それだけ選ぶという行為が大事なのだと思います。小さい時から自分で選ぶ機会を与えないで親の決めた事にばかり従わせていると,大人になってからも自分の進路や生き方さえも自ら決定する事が出来なくなるのではないでしょうか。

けれど,そういう事が分かっていても,子どもに選ばせるというのはなかなか難しいものです。洋服ぐらいは選ばせようと思っても,寒いのに半そでの服をひっぱり出してきたり,もう暑いというのに毛糸のセーターを着ようとしたり・・で,結局「そっちじゃなくて,こっちにしたら」という事になってしまいます。そんな愚かな母のために,「よくぞ描いてくれました」というのがこの絵本です。

という訳で,なかなか満足に選ばせてもらえなかった我が娘も,5,6才の頃,図書館からこの本を度々借りてきては「お母さんはどっちがいい?私はこっち」等と言いながら見ていたものです。

ナンセンスな問いかけがたくさん出てくるので,大人でも結構楽しめます。家族中で選びながら読むと面白いかもしれません。その上,時々やってみると気が変わっていたりして,それも面白いだろうと思います。

 

「あなたがお手伝いをするとしたら,ようせいのまほうと,小人のたからさがしと,まもののいたずらと,ま女のシチューづくりと,サンタクロースのプレゼントくばりと,ねぇ,どれがいい?」

 

選ぶというのは、自由への一歩ではないだろうか?そしてそれはまた、愛するということの入口に立つ行為かも知れない。