風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「あなたに必要なのは空気なんです、空気、空気なんです!」 - ドストエフスキー『罪と罰』17

あなたは、第一に、もうとうに空気を入れかえなくちゃならなかったんです。まあ、苦しみもいいものですよ。苦しまれることですな。ミコライが苦しみを望んでいるのも、正しいことかもしれません。そりゃ、信じられないのはわかりますがね、妙に理屈をこねないことですな。あれこれ考えこまないで、すなおに生活に身をまかせる、そうすれば、心配はいりません、ちゃんと岸辺に運んでくれて、しっかり立たせてくれますよ。どんな岸辺だというんですか? どうして私が知っています? 私はただ、あなたはまだ長く生きる人だと信じているだけですよ。(略)信じておられないのは承知しています、しかし、かならず生がもたらしてくれますよ。そのうちには、自分から好きになりますよ。あなたに必要なのは空気なんです、空気、空気なんです!」(岩波文庫罪と罰 下』p220~221

 

ここに出てくる「空気」という言葉がロシア語でどういう内容を含んだものかは分からないのだが、ギリシャ語で「聖霊」を表す「プネウマ」という言葉には「空気」という意味が含まれている、という。

 

罪と罰』でラスコーリニコフに必要だと語られる空気は、『カラマーゾフの兄弟』においては、以下の場面に現れている。

地上の静けさが空の静けさと融け合い、地上の神秘が星の神秘と触れ合っているかのようだった・・・・・アリョーシャはたたずんで眺めていたが、ふいに足を払われたように地べたに倒れ伏した。
(中略)
しかし、刻一刻と彼は、この空の円天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想とも言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった・・・・・(新潮文庫カラマーゾフの兄弟 中』)

 

申命記11:8~12からの説教(抜粋)

 「それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。」(11:12)

 罪の世にあると「神はおられないのではないか」と思うことがしばしばあります。罪は神の不在を信じさせようとします。

 ですから神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と語られます。だからイエス キリストは「インマヌエル 神は我々と共におられる」という神の御心を成就するために来られました。

 十字架も復活もわたしたちのためのものでした。

 そして、聖霊によってわたしたちはイエス キリストと一つに結び合わされて、「キリストがわたしの内に生きておられ」(ガラテヤ 2:10)るようにされているのです。

http://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/01/01/200858 

 

 


罪と罰』からの「空気」に関連した引用はもうここで終わりだと思いながら先を読んでいると、こんな言葉に出くわした。

逃亡生活というのは、いやらしい、苦しいものだが、あなたが何より必要としているのは、生であり、確固とした立場であり、自分のものである空気なんですからね。だが、逃亡生活にあなたの空気があるでしょうか? 逃亡したとしても、自分で舞い戻ってみえますよ。あなたはわれわれなしじゃ、やっていけないんです。(岩波文庫罪と罰 下』p223)

 

この「あなたはわれわれなしじゃ、やっていけないんです」という言葉には、作者ドストエフスキーによって傍点が打たれている。

もう返却したのだけれど、小林秀雄の『「罪と罰」について』に、ドストエフスキーが付した傍点にどういう意味が込められているかを思い巡らしながら読むと良いというようなことが書かれていたのだった。

一読、この「われわれ」は「自分たち警察署の人間」ということだと思い込んでいたのだが、そしてその意味でポルフィーリイには語らせているだろうが、この傍点によってもう一つ奥に真の意味が隠されていると思った。

それで私は、読み返しながら目を瞠ったのだった。

 

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。(創世記1:26 聖書協会共同訳)

 

キリストは十字架の後、上へと引き上げられたが、聖霊は降ってくる。こういうことを考えていると、ドストエフスキーというのは、文学で神学をした人だったんだなぁと思わされる。