風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ミコライとラスコーリニコフ - ドストエフスキー『罪と罰』16

ところでミコライのほうは、あれがどういう筋書きだったのか、お知りになりたいでしょうな、といっても、私の理解したかぎりということになりますがね。(略)彼は分離派教徒なんですよ。いや分離派というより、たんなる宗派なんですな。彼の一族にベグーン教徒がいましてね。(略)あの連中の一部のものが、「苦しむ」ということをどう受けとっているか? これは、とくにだれかのためにというんじゃなくて、ただもう「苦しむべし」なんですな。苦しみはこれをすすんで受け入れよ、ましてお上から与えられる苦しみとなれば、なおさらなんです。(岩波文庫罪と罰 下』p207~209)

そういうわけで私はいまでも、ミコライは「苦しみを受け入れ」ようとしている、何かそんなことじゃないかと疑っているわけです。(略)私はね、彼が自供をくつがえしに来るのを、いまかいまかと待っているんです。(略)いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライの仕事じゃない!p210

 

ところがそのうえに、人殺しをしながら、自分を心義しい人間とみなして、人々を軽蔑し、青白い天使のように歩きまわっている。いや、これがミコライなもんですか、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃありませんよ!」p211

 

私があなたをどんな人間と考えていると思います? 私はこう考えているんですよ、あなたという人は、たとえ腸をひきちぎられても、微笑を浮かべて迫害者を見ていられる人だ。もちろん信念か神かを見つけられたらの話ですがね。まあ、せいぜい見つけて、生きてくださいよ。(略)まあ、苦しみもいいものですよ。苦しまれることですな。ミコライが苦しみを望んでいるのも、正しいことかもしれません。(略)私はただ、あなたはまだ長く生きる人だと信じているだけですよ。(略)あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし!その点、神に感謝してしかるべきかもしれない。だって、神があなたを何かのために守ってくだすったかもしれないじゃないですか。(略)」p220~221

 

だが、あなたが別な部類の人たちの仲間入りをしたからって、それがなんです? あなたのような心をもった人間が、快適な生活が失われたからって悔やむこともないでしょう? まあ、あなたはあまりにも長い間、だれの目にもふれなくなるかもしれないが、それがなんです?(略)」p222

 

「いや、あなたは逃げたりしませんよ。(略)いま流行の狂信的教徒なら、他人の思想の奴隷なら逃げるでしょうがね。(略)私にはね、あなたが「苦しみを受ける気になる」という確信まであるんです。(略)なぜって、ロジオン・ロマーヌイチ、苦しみは偉大なことですからね。(略)苦しみには思想がありますからね。ミコライは正しいですよ。いや、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたは、逃げたりしませんよ」p223~224

赤字表記は、管理人ミルトスによる)

 

これは、ラスコーリニコフに自首を勧めに来た予審判事ポルフィーリイの言葉である。

ポルフィーリイは自首を勧めながら「苦しみを受ける」ということをしきりに勧めているのだが、「ミコライは正しい」と言いながら、「苦しみを受け入れ」ようとしているそのミコライとラスコーリニコフは明らかに違っているということを述べている。

どう違うのか?

それは、「とくにだれかのためにというんじゃなくて」、この一言にはっきりと表されている。

もちろんこの違いを指摘しているのは、作者ドストエフスキー自身である。

 

「本当の苦しみは愛するものからやって来る」(小林秀雄のである。

 

以下に、「ベグーン教徒」について記した訳注の言葉を引用する。

現世はすでにアンチクリストの支配下にあり、その頭目ピョートル大帝であると教え、兵役や法律を認めようとしなかった。とくに裁判や審理のさいには、虚偽を申し立てて、無実の罪を自分に引きかぶることが魂の救いになると信じていたらしく、実際にそのような例も数多くあったらしい。(岩波文庫罪と罰 下』「訳注」)

 

誰のためでもなく自分の魂の救済のために「苦しみを受け入れ」ようとする者と、ラスコーリニコフは明らかに違っている。

myrtus77.hatenablog.com

 

ここでちょっと、「もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし!」という言葉について触れておこうと思う。私は、これは、「神殺し」を言っていると受け取った。

 

ラスコーリニコフに対して語られる「あなたという人は、たとえ腸をひきちぎられても、微笑を浮かべて迫害者を見ていられる人だ」というポルフィーリイの言葉の後には、「もちろん信念か神かを見つけられたらの話ですがね」という言葉が続いている。

そしてしばしばポルフィーリイは、ラスコーリニコフが神を信じていないのは承知している、と言っているのだが、神を殺してはいないと信じてもいるのである。

 

「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ」という言葉はなんと酷い言葉かと思うが、これは、ドストエフスキー作品のテーマに関わって非常に重要な言葉だろうと思われる。

 

私はすでに以下のブログ記事でこの点について触れて書いているのだが・・。

myrtus77.hatenablog.com

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