風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神がいるなら、どうしてこんな悲惨な事が起きるのか!」 - ドストエフスキー『罪と罰』

マタイによる福音書2章13節から23節からの説教(抜粋)

 

  このような悲惨な出来事に直面致しますとわたしたちは神の存在を疑いたくなります。なぜわたしたちを愛し、救おうとしておられる神がいるのにこのような事が起こるのだろうか。わたしたちは自問自答します。けれども、神がいないのでこのような悲惨な出来事が起こるのではなく、神に背き、神から離れて生きていこうとするわたしたち人間の罪が悲劇を引き起こすのです。

 神はこのような恐ろしい人間の罪がご自身の御業の上に振り向けられても、なお人間を裁き減ぼし尽くすことなく、わたしたちを救おうとしてヨセフに命じてイエスをエジプトヘと導かれるのです。

 わたしたちは、このような悲劇に耐えていないで神がすぐにも審きをなさればいいのに、と思わずにはいられません。もちろん、神はこの出来事を悲しまれないわけではありませんし、子を失った母の悲しみを知らないわけではありません。

 そうではなく、誰よりもその悲しみを知っておられるので、神はこの上ない忍耐をもって審きと滅びではなく、命と祝福へとわたしたちを導こうとされるのです。だからこそ今、神はそのひとり子を十字架の死へ向けてこの世にお送りくださったのです。

http://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/12/30/220650

 

借りてきた小林秀雄の本を返却までの間少し読もうと思って、「『罪と罰』について」を読み始めたのだが、最初の1ページ目から興味深い文言にいき当たった。

いかにも、この作のもたらす感動は強い。残念なことには、誰も真面目に読み返そうとはしないのである。

 ドストエフスキイが、これを書いたのは、四十五歳の時であった。作の主人公は二十三歳の大学生である。四十五歳にもなった作者が、二十三歳の青年の言行を、何故あれほどの力を傾けて描き出さねばならなかったか。これは、青年たちにとっては、難解な問題である。この作が青年たちを目当てに書かれたものではないことはもちろんなのだが、悪いことには、その異常な強烈な印象は、多感な青年の心をあんまり巧みに摑み過ぎた。「罪と罰」という作品は忘れられ、作品から与えられた感動だけが記憶に残る。四十五歳にもなれば、今さら「罪と罰」でもあるまいということになる。世間を小説風に見ることから始めて、小説を世間風に見ることに終わる、どうもこれが大多数の小説読者が歩く道らしく思われるが、そういう読者の月並みな傾向の犠牲者として、ドストエフスキイくらい恰好な大作家はいないようである。彼くらい、少年や青年に傾倒し、作中、彼らに最も重要な役を振り当て、その熱烈な演出に成功した作家はいない。と言うのは、彼の作品ほど、青年向読物という仮面がよく似合う作品はあるまいという意味だ。彼の素面には、どんな深い仔細が隠されていたか。これは、常識で武装した世の大人たちには関係のない事柄だ、また、ドストエフスキイよりトルストイの方が大人びた小説家だと思い込んでいるわが国現代の作家たちの小説常識にも。(小林秀雄『「罪と罰」について』p1)

 

確かに、「神がいるなら(こんな悲惨な出来事が起きるはずはないだろう)、(それなのに)どうしてこんな悲惨な事が起きるのか!」というような問いは、若者のうちに生じ易い問いだと言えるだろう。

 

昨年行われた青年の集いのグループトークでもこういった問いが発せられたと聞いた。

グループトークの司会進行も青年によってなされ、牧師は中に入らないという形式だったようである。が、こういった問いが発せられた場合に、答えることのできる牧師がはたしてどれだけいるだろうか?と思う。

 

青年の時に自らに問うた問いを抱え続けて、納得のいく答を得ている者でなければ応えることはできないだろう。

 

ドストエフスキーは、そういった問いを問い続けて、神からの応えを手にした作家だった、と言えるだろう。