風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自殺者の葬儀について - ドストエフスキー『罪と罰』から

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25:40)

 

私は「スヴィドリガイロフとユダ」で、「スヴィドリガイロフの言葉は、この聖書の言葉を逆転させた言葉だと言える。『キリストにしたことは、最も小さい者の一人にしたことに等しい』、と」と書いた。

しかし、現実の世界で私たちがキリストに良きことをなすのは不可能に等しい。

「キリストに」と言う時、「献身する」、「修道女になる」ということを思い浮かべる人もいるかも知れないが、そういった表面的なことではなく内実が問われると考えるなら、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と、聖書の言葉をそのまま受け取る方が現実的なのだ。

 

スヴィドリガイロフは、残されたカチェリーナの子ども達のためにも行動している。

 

 

三二一 川に身を投げた自殺者 正教教会では自殺者に対しては正式の葬儀を行わず、教会の墓地にも葬らせないことにしていた。(岩波文庫罪と罰 下』「訳注」より)

 

しかし、自殺者の葬儀はしないとか、墓にも入れないというのは、ドストエフスキーでなくともおかしいと考えるのが普通ではないか。と思うが、自殺者の葬儀はしないというのは正教会に限ったことでなく、プロテスタントの教派でもそう考える方が一般的だったのではないかと思う。牧師によっても違ってくるとは思うが・・。

この根拠となっているのが、サウル王とユダの死であるようだ。しかし、ダビデはサウルの死を悼み弔っている。

もう一つ大きな根拠となるのが、命は神から与えられたものであるから勝手に絶つことは罪であるという認識だろう。

 

夫は、依頼を受けて、自殺された教会員ではない方の棺前祈禱をしたことがある。

私たちは天寿を全うするのでなければ身体の病で亡くなるわけだが、心の病で亡くなる場合もある、それが自殺である。身体の病で亡くなった場合には葬儀をする。それなら心の病で亡くなった場合でも葬儀をするのが当然だろう、と夫は理解しているようである。

 

 

 

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