で、私のいまの希望は、あなたのご紹介でアヴドーチヤさんにお目にかかって、なんならあなたもご同席のうえで、ルージン氏と結婚されても一文の得にもならない、いや、それどころか、むしろ損になることが見えすいているとご説明したい、これが第一なんです。つぎには、先ごろのいろいろな無礼をお許しいただいたうえで、一万ルーブリのお金をアヴドーチヤさんに進呈したい、そのことでルージン氏と手を切られる埋めあわせをしていただきたいというわけです。もっとも、ルージン氏と手を切られること自体は、アヴドーチヤさんも、それが可能だということなら、けっして異議はないと確信するのですがね」(岩波文庫『罪と罰 中』p209)
「とんでもない。それじゃ、この世のなかで人間が人間に対してなしうるのは悪だけだと言うことになりますよ。それどころじゃない。くだらない世間のしきたりにしばられて、ほんの小さな善をする権利ももてないということになる。ばかげたことです。じゃ、もし私が死んで、遺言によってそれだけの金を妹さんに残したとしたら、それでも妹さんは受けとるのを拒否されますか?」(p211)
本当になさるか知りませんが、あのときの私はもうとことんまで惚れぬいていましたから、もしあのひとが私に向かって、マルファを切り殺すなり、毒殺するなりしてわたしと結婚してくれ、と言われたら、即座にそれを実行していたでしょうな!(略)ですから、おわかりいただけると思いますね、マルファがあのろくでなしの三百代言のルージンを拾ってきて、結婚話をまとめかけたのを知ったとき、私がどんなに憤激したか。だってこれは、私の申し入れと本質的に同じことじゃありませんか。そうでしょう? そうでしょう? そうじゃありませんか? (岩波文庫『罪と罰 下』p258)
「あなたはいま「暴行」と言われましたね、アヴドーチヤさん。(略)あなたがお兄さんを売り渡そうというつもりになることもありますまいからね。それに、だれがあなたの言うことを真に受けるものですか。だいたい、どうしてまた娘さんが、独身の男の部屋にひとりでやってきたんです? そんなわけで、もしお兄さんを犠牲になさるとしても、あなたは何も証明できやしませんよ。暴行の証明というのは、たいへんむずかしいものでしてね、アヴドーチヤさん」
(略)
「(略)私がああ言ったのは、ただ、あなたの良心にはなんの影も残らないようにしたかったからなんです。かりにあなたが・・・・・もしかりに、私の提案どおり、ご自分からお兄さんを救おうというつもりになられたとしてもですよ。あなたは、つまり、ただ状況に屈服されただけだ、まあ、暴力にとしてもいいです、どうしてもこの言葉が必要ということならですね。よく考えてみてください。あなたのお兄さんとお母さんの運命はあなたの手ににぎられているんですよ。私はあなたの奴隷になります・・・・・生涯・・・・・さあ、私はここで待つことにします・・・・・」
スヴィドリガイロフは、ドゥーニャと八歩ほどへだたったソファに腰をおろした。彼が不動の決意をかためたことを、彼女はもう一点も疑えなかった。(略)
突然、彼女はポケットから拳銃を取り出した。(p294~295)
「じゃ、愛してないんだね?」彼は、おだやかにたずねた。
否定の意味をこめてドゥーニャは首を横にふった。
「それで・・・・・愛せない?・・・・・いつまでも?」絶望をこめて彼はささやいた。
「いつまでも!」ドゥーニャもささやいた。
スヴィドリガイロフの心のなかで、おそろしい無言のたたかいの数秒が過ぎた。彼は言い表しようもない目で彼女を見やった。ふいに彼は手を引いて、くるりと後ろを向き、足早に窓のほうへ行って、その前に立った。
さらに数秒が過ぎた。
「鍵です!(彼は外套の左のポケットからそれを取りだして、自分の背後のテーブルの上に置いた。ドゥーニャのほうはふり向いて見ようともしなかった)お取りなさい。早く出て行ってください!・・・・・」
(略)
ドゥーニャが投げすて、戸口のほうへ飛んでいた拳銃が、ふいに彼の目にとまった。彼は拳銃を取りあげて、ながめまわした。小さな、懐中用の三連発拳銃で、ふるい型のものだった。なかには、まだ弾丸が二発と、雷管がひとつ残っていた。まだ一度は射てるはずだ。彼はちょっと考えてから、拳銃をポケットに入れ、帽子を取って、外へ出た。(p300~301)
彼はなかなか寝つけなかった。先ほどのドゥーニャの姿が、しだいに彼の目の前に浮かびあがってきて、ふいに戦慄が彼の体を走った。『いや、こいつはもう思いきらなくちゃいかん』はっとわれにかえって、彼は思った。『何かほかのことを考えなくちゃ。奇妙で滑稽なのは、おれがだれにたいしてもまだ強い憎しみを持ったことがない点だ。仕返しをしてやろうという気にも、とくになったことがない。しかし、こいつは悪い徴候だぞ、悪い徴候だ!論争もきらいだし、ものごとに熱中したこともない、これも悪い徴候だな! それにしてもさっきは彼女にずいぶん約束を並べたてたものだ、ばかばかしい! あの女なら、おれをなんとか叩き直してくれたかもしれないがな・・・・・』彼はふたたび黙りこんで、歯をくいしばった。ふたたびドゥーネチカの姿が彼の前に現れた。それは先ほど、一発めを発射してから、ひどくおびえきり、拳銃をだらりとさげて、死人のような顔で彼を見つめていたときの彼女そのままだった。あのときだったら、二度も彼女をつかまえることができたはずだった。そうしたって彼女は、こちらから言ってやりでもしないかぎり、手をあげて体をかばうことさえしなかっただろう。彼は、あの瞬間、ふいに彼女が哀れになり、心臓がしめつけられるような感じがしたことを思いだした・・・・・『えい、畜生! また同じことを考えている。こんなことはさっぱりと思いきらなきゃ、さっぱりと・・・・・』(p317~318)
『罪と罰』の後半、スヴィドリガイロフを中心に描かれているのは「愛と自由」ということだろう。
20年ほど前の青年の集まりで夫は、「愛と自由」をテーマに、ジョン・ファウルズ作『コレクター』等を取り上げて語ったそうなのだが、これは、そもそも聖書の大きなテーマである。
「神はどうして取って食べてはいけない果実の木を植えたのか」という問いは、これまで繰り返し問われてきたのではないだろうか?そして、「食べていけないのなら植えなければ良かったろう」と・・。
食べてはいけない善悪の知識の木を生えさせたのは、自由を与えるためです。自由を与えたのは、人が愛する者であるためです。自由のないところに愛はありません。そして人はただ言うとおりに動くロボットになってしまいます。
http://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/12/15/210744
もしスヴィドリガイロフかルージンのどちらか一方を選ばなければならない立場に置かれたなら、私は、スヴィドリガイロフを選ぶ。
スヴィドリガイロフは、本気で愛を求めた人間だったからだ。
「人間だった」というのは、読み終えてそういう人間として描かれていたことを知ったということだが・・。
「本当に危険なのは悪ではなく正義」とか、「地獄への道は善意で舗装されている」とか、非論理的な逆説を弄んで賢しらぶる人が日本には多いけどさ。そうやって正義や善意を否定した先にあるのは、ふつうに悪が歯止めなく権力を振り回して、ふつうに悪意が弱い人を踏みにじる、そのままの地獄だよね
— シュナムル (@chounamoul) December 20, 2019