風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

グリム童話『手なし娘』とソーニャ - ドストエフスキー『罪と罰』

グリム童話に『手なし娘』という話がある。『手なし娘』のような話は日本の民話にもあるが、色々本を家に置いてきているので確認することが出来ない。

 

『手なし娘』というのは、相手が悪魔と気づかぬまま「金持ちにしてやろう」という口車に乗って父親が知らず知らずのうちに娘を引き換えにしてしまうという話である。

両手を失った娘は家から出て行くが、王子に見そめられて妃となる。けれどその後も苦難は続き、子どもと両腕を背中にしばりつけられて城を出て行く。深い森の中で娘は、神と思しき老人に出会い、手を元に戻して貰い、最終的に王子が探しに来て「めでたし、めでたし」となる話である。

 

この『手なし娘』に象徴されているのは、《徹底した無力》であろうと思われる。

 

罪と罰』を読み始めて、私がソーニャから思い浮かべたのは、この『手なし娘』であった。

で、聞いておると、私のソーニャが(あれは口答えをしない子で、声も実にやさしいんですが・・・・・ブロンド髪で、いつも青白い、やせこけた顔をしておりますよ)、言っておるんですな。「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことしなくちゃいけないの?」実は、ダリヤ・フランツェヴナという、警察にも何度もご厄介になっている性質の悪い女が、家主のかみさんを通じて、三度ほども口をかけてきておったんです。「それがどうしたのさ」とカチェリーナがせせら笑って答えております。「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」けれど責めないでくださいよ、あなた、責めないで! あれは落ちついた頭で言ったことじゃない。(略)で、私が見てますと、五時をまわったころでしたが、ソーニャが立ちあがって、プラトークをかぶって、マントを羽織って、部屋から出ていきましたっけ。それで八時すぎになってから、また帰ってきたんです。帰ってくるなり、まっすぐにカチェリーナのところへ行って、その前のテーブルに黙って三十ルーブリの銀貨を並べました。そのあいだ一言も口をきこうとしないどころか、顔をあげもせんのです。(岩波文庫罪と罰 上』p42)(赤字表記は管理人ミルトスによる)

 

しかし、下巻に入って、ラスコーリニコフと対峙するソーニャから受け取れるのは《力》と《論理》である。

「なぜあなたは、そんなありえないことを聞かれるんです?」ソーニャは嫌悪の色を浮かべて言った。

「すると、ルージンが生き残って、悪事を重ねたほうがいいんですね! あなたは、そんなことも決められないんですか?」

「だって、わたしには神さまの御心を知ることはできませんもの・・・・・それに、どうしてあなたは、聞いてはならないことを聞かれるんです? なんのためにそんな意味のない質問をなさるんです? それがわたしの解決にかかっているなんて、ありっこないじゃありませんか? だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないなんて、いったいだれがわたしを裁き手にしたのです?」

 

(略)

 

「あなたはなんてことを、いったいなんてことをご自分にたいしてなさったんです!」

 

(略)

 

「もっとはっきり話してくださいません・・・・・譬え話なんかでなく」

 

(略)

 

「お黙りなさい! ひやかすのはよしてください、

                    (岩波文庫罪と罰 下』p108~131)

 

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかったほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。

義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ書53:3~12 口語訳)

 

 

一人のみどりごが私たちのために生まれた。

一人の男の子が私たちに与えられた。

主権がその肩にあり、その名は

「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

イザヤ書9:5 聖書協会共同訳)(赤字表記は管理人ミルトスによる)