風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

マルメラードフの死 - ドストエフスキー『罪と罰』9

 通りの中ほどに、葦毛の駿馬を二頭つないだ粋な作りの旦那用の四輪馬車が止まっていた。だが乗り手はなく、馭者も馭者台から降りて、わきに立っていた。馬はくつわを押さえられていた。まわりは黒山のような人だかりで、いちばん前のほうに警官の姿が見えた。そのひとりが角燈を手にかがみ込んで、歩道の上の車のすぐ横を照らしていた。人びとは話したり、わめいたり、溜息をついたりしていた。馭者はなんとも合点のいかぬ様子で、ときたまこうくりかえしていた。

 「なんて災難だろう! ああ、とんだこった!」

 ラスコーリニコフは強引に前のほうに割ってはいって、やっと、この騒ぎと好奇心の的になっているものを見ることができた。地べたには、たったいま馬に踏まれたばかりの男が、どうやら意識を失っているらしく倒れていた。ひどく粗末なものだが、それでも役人ふうの身なりをしていて、全身が血まみれになっていた。顔からも、頭からも血が流れていた。顔は傷だらけで、皮膚がむけ、ひんまがっていた。一見して、ひととおりの踏まれ方ではないとわかった。

 「みなの衆!」馭者が泣き声で言った。「どうにもよけようがなかったですよ! わしが馬を飛ばしてたとか、声をかけなかったとかいうならべつだが、そう急いでたわけでもなし、並足で来たんだから。みんな見ていたですよ。そりゃ、人間なんて噓のかたまりみてえなもんで、当てにゃならねぇって言うけんど、なにしろみなが見てたんだから。よっぱらいが提灯持って歩かねえくらいしれたことだが・・・・・わしはこの人がよろよろして、いまにもぶっ倒れそうな様子で通りを横ぎるのを見たもんで、一度、二度、いや、三度まで声をかけて、手綱を引いたんだ。そしたらこの人は、まともに馬の下にはいって来て、ぶっ倒れちまったんですよ! わざとやったのか、それとも正体ねぇほど飲んだくれていたのか知らねぇですがね・・・・・ところが馬が若いやつで、おびえやすいもんだから、いきなり引っかけちまって、そこへこの人が大声あげるもんだから、なおさら・・・・・で、こんな災難になっちまったですよ」

 「そのとおりだぜ!」人込みのなかからだれかが証言を買って出た。

 「声をかけたってえのは本当だ。三度もどなってた」別の声が応じた。

 「きっかり三度だった。みんな聞いていたんだ!」またべつの声が叫んだ。(岩波文庫罪と罰 上』p360~362)

 

エピローグを読む前に、ここについて書こうと思っていたのだが、後になってしまった。

 

ここは、マルメラードフが死に向かう場面である。

 

「とうとうやったんだね!」カチェリーナは絶望的にこう叫ぶと、夫のそばへ駆けよった。(『罪と罰』)

 

マルメラードフが家に運び込まれた時のカチェリーナのこの「とうとうやったんだね!」という言葉が、「そんなに酔っぱらってばかりいるといつか馬車にはねられちまう」と心配していたことがとうとう起きてしまったということを表しているのか、前から「やる」と言っていたことをとうとう決行したということを表しているのかははっきりとはしない。

 

しかしこのマルメラードフの死に向かう場面に先立つ229ページにはこういう場面が置かれている。

 しかしラスコーリニコフはもう通りへ出ていた。ニコラエフスキー橋のたもとで、彼は、きわめて不愉快な事件のおかげで、もう一度、完全に正気に返った。ある箱馬車の馭者が、三、四度も大声で注意したのに、彼があやうく馬車にひかれそうになるので、その背中を思いきり鞭でどやしつけたのである。鞭の一撃にかっとなった彼は、さっと欄干のほうへ飛びすさり(括弧内:略)憎々しげにはげしく歯がみをした。当然のことだが、まわりでは笑い声が起こった。

 「いい気味だ!」

 「どこかのいかさま野郎さ!」

 「知れたことさ、酔っぱらったふりをして、わざと馬車にひかれて、さあ、どうしてくれる、というやつさ」

 「あれが商売なんですよ、ええ、商売なんですよ」(岩波文庫罪と罰 上』)

 

ここを、ドストエフスキーが、マルメラードフの死の真相についての伏線としているのは明らかだ。

 

マルメラードフが死に向かう場面を読んだ時、二十数年前の知人の訃報を思い起こした。連絡をくれた人は、「自分から車に飛び込んだという噂も出ている。生命保険をかけていたようだ」と伝えてくれた。知人は病気になって、家族を養えない状況になっていた。

 

江川卓氏は解説の中で以下のように記している。

 見るとおり、すでにこの最初の手紙で、『罪と罰』の構想は、その主要なテーマである「人類の断絶感」、「苦しみによるあがない」といったところまで含めて、その骨組みができあがっており、大筋は最後まで変わることがなかった。しかし、実際に創作にかかってみると、思わぬ困難がつぎつぎと現れることになった。最初は現在の作品の六分の一程度の中編小説が考えられ、犯罪者による一人称の告白形式で話をすすめることになっていた。ところが日記体とか、八年前の事件の回想とか、法廷での自供とか、さまざまな形式が考えられ、試みられたが、どれもうまくいかず、そうこうするうち、別に構想されていた『酔っぱらいたち』という小説をこの小説と一つにまとめあげようというアイデアが浮かんだ。酔いどれの小官吏マルメラードフは、この『酔っぱらいたち』から移ってきた人物であり、この二つの構想が統合されたことで、『罪と罰』は、現在見るような、広く深い社会的背景をもった本格的な長編小説になることができたのである。(岩波文庫罪と罰 下』「解説」より)

 

まだ読んでいる途中なのではっきり断定することは出来ないが、マルメラードフの死の真相をはっきりさせる必要もないのだとも考えている。

ドストエフスキーがこのように伏線をおき、現実の世界の中でもこのようなことが起こりうるという風にして描いている、そのことそのものが重要なのだと言える。

 

マルメラードフの臨終に際してカチェリーナは、ポーレニカにソーニャを呼びに行かせる。

 しかし彼は、超自然的な努力をはらって、うまく片肘をついた。彼は、まるで娘がだれかわからぬように、うつろな目でしばらくじっと彼女を見すえていた。事実、彼は娘がこんな身なりをしているところを、一度も見たことがなかったのである。だが、ふいに彼は娘に気づいた。さげすまれ、ふみにじられ、けばけばしくめかしたてられ、そんな自分を恥じて、臨終の父に別れを告げる番がまわってくるのをただつつましく待っている娘。底知れない苦悩がありありと彼の顔に現れた。

 「ソーニャ! 娘! 赦してくれ!」彼はそう叫んで、彼女のほうに片手を差しのべようとした。だが、そのとたん、彼は支えを失ってつんのめると、顔を下にしたまま、ソファから床の上にどすんところげ落ちた。みなが駆けよって抱きおこし、ソファの上に寝かせたが、彼はもう息を引きとろうとしていた。ソーニャが弱々しい叫び声をあげて、つと駆けよると、彼を抱きかかえ、そのままじっと動かなかった。彼はソーニャの腕に抱かれて死んでいった。

 「やっと望みがかなった!」カチェリーナは夫の遺骸を見て叫んだ。(岩波文庫罪と罰 上』p382)

 

カチェリーナを幸せにしたいと思って結婚を申し込んだ男の、言わば自ら死に向かっていったような最期を、ドストエフスキーはキリストによって受けとめられた死として描いたのだ。それで充分だ、それ以上何を詮索する必要があるだろうか、と思うのである。