風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ペーター・ヘルトリング=作『ヒルベルという子がいた』(偕成社文庫)

以下、昔書いた子どもの本の紹介から、

ペーター・ヘルトリングの作品に「ヒルベルという子がいた」という児童書があります。ヒルベルというのはその子の本当の名前ではありません。ドイツ語で、「ヒルン」という言葉は「脳」を,「ヴィルベル」という言葉は「混乱」を意味するのだそうです。つまり「混乱した脳」と呼ばれている子がいたのです。どこに? 親に見棄てられた子のいる施設にです。

この施設に診察に来る医者は子どもを三人引き取って育てています。ある時,ヒルベルは自分もこの医者の家に引き取ってもらおうと仮病をつかいます。それが失敗に終わって,医者の家ではこれ以上子どもを引き取るのは無理だと分かります。

その場面について,河合隼雄氏は『子どもの本を読む』の中で次のように書いています。

「われわれ人間は何とかしたいと思いながら、何とも致し方がないときがある。カルロス先生の心中はどのようであったろうか。カルロス先生がどんなに優しくとも、三人の上にもう一人、ヒルベルを引きとることはできなかった。カルロスはヒルベルを見棄てざるを得なかったのである。

 しかし、果たしてそのように言い切ってよいものだろうか。私にはこのことは次のようにも受けとれるのである。カルロスは黙って出てゆくヒルベルに対して、許しを乞いたかったのではなかろうか。あるいは彼はヒルベルを見棄てる気など毛頭ないと弁明したかったのではなかろうか。ヒルベルはそれに対して、カルロスさん、あなたが冷たい人でないことはよく解っていますと言ってやることもできたであろう。しかし、彼は黙って出て行った。ここで私は、カルロスがヒルベルに見棄てられたように感じるのである」

この河合氏の文章を読んで,キリストを思い浮かべました。見棄てる事と見棄てられる事がキリストの十字架の上で極まっている。

無力感に苛まれる時、自分の力の限界を思い知らされる時、いつもキリストの十字架の下に帰って来る。
そうして、そこで、うな垂れている。
すると、キリストは私達のこの限界を味わい尽くすために来て下さったのだ、ということに思い至る。

全能の神でありながら、肉体という限界を取って来られたキリスト。罪の中で限界を抱えて苦しむ私達のために、黙って十字架にかかられたキリスト。

このキリストの無力の果てに神がキリストに備えられたものの上に,キリストが私達のために備えて下さったものの上に、希望をおいて生きていきたいと思うのです。

 

河合隼雄=著『子どもの本を読む』(講談社文庫)

ペーター・ヘルトリング=作『ヒルベルという子がいた』(偕成社文庫)