風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

人殺しより大きな罪(アリョーシャの罪)

では、アリョーシャはどういう罪を抱えていただろうか?

 

しかしそれを考える前に、アリョーシャの無力がどこで最大限に示されているかを考えよう。

アリョーシャの無力は、もちろんゾシマ長老を生き返らせることが出来ないというところに最大限に示されている。

これはドストエフスキー自身の無力でもある。最初の妻マリヤを死から救えなかったという無力である。

しかし、その妻を置いて女の後を追いかけていた作者自身の姿はドミートリイの中に描き出されていると思われる。

妻を死から救い出すことが出来ないと嘆くことと、他の女を追いかけていくこととが一人の人間の中で併存しているのである。これは全く相容れないものではない。

しかし、その無力はアリョーシャの無力として描いている。

明日は修道院から一歩も出ずに、息を引きとるその時まで長老の枕辺に付き添っていようと、熱っぽい気持で固く決心した。心が愛に燃えた。この世のだれよりも敬っている人を、修道院で臨終の床に置き去りにし、たとえ一瞬とはいえ、町の中でその人のことを忘れていられた自分を、彼は苦々しく責めた。『カラマーゾフの兄弟

 

さて、アリョーシャはどういう罪を抱えていただろうか?

アリョーシャ自身の罪の自覚はカラマーゾフ的なものだったかも知れない。

では、カラマーゾフ的な罪とはどういったものだろうか?

カラマーゾフの兄弟』の第三編は「好色な男たち」というタイトルが付けられている。そこでは、カテリーナとグルーシェニカをめぐるドミートリイの恋愛話が中心的に描かれているが、ここに大きな罪がある。

「お前だけなんだ。それともう一人《卑しい女》に惚れて、そのために一生を棒にふっちまったよ。だけど、惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。惚れるのは憎みながらでもできることだ。『カラマーゾフの兄弟

 

カラマーゾフの兄弟』は「父殺し」をテーマにしているというようなことも聞くのだが、「父殺し」よりも大きな罪が描かれているように見える。それは、神でない者を神とする罪である。まさに恋愛とは、神でない者を神とする行為なのだ。

 

私にはこんな聖書の言葉が思い浮かぶ。

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。(マタイによる福音書10:37)

 

大審問官について語ったイワンと別れた後、僧庵へと帰り着きながらアリョーシャはこんなことを考える。

あ、僧庵だ、助かった! そう、そうだ、長老のことか。長老さまがセラフィクス神父なのだ。あの方が僕を救ってくださる……悪魔から永遠に!』『カラマーゾフの兄弟

悪魔からゾシマ長老が自分を救ってくださる、とアリョーシャは考えたのだ。

この点で、アリョーシャの罪はスメルジャコフの罪に通じる。

アリョーシャは人殺しよりも大きな罪を抱えていたと言える。

神でない者を神とする罪、つまり偶像崇拝の罪を抱えていたのだ。

 

モーセに与えられた十戒の冒頭はこうである。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20:2~6)

 

キリストもまた、次のように言われた。

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。(マタイ22:37,38) 

 

つまり聖書における最大の罪はここに関わっているのである。